77、現在 確率振幅
後部座席に座った亜希は、運転席にいる零と助手席にいる彰くんを観察する。二人とも黙ったままだ。
夜になり、亜希たちは食品や生活用品の買い出しに出かけることになった。それにあたって、役割分担で少々揉めた。
「私が一緒に行きますよ」
まず琳がそう言って、なかなか譲らなかった。確かに、五人の中で最も土地勘があるのは琳だから当然だった。しかし、それを亜希と彰が止めた。
「おまえ、カードで必要のないものまで買うつもりだろう?」
彰がそう問い詰めると、琳が強張った声を出す。
「別に後でお金返してとか言いませんから」
「そういうことを言ってんじゃねえよ。おまえの金銭感覚でいらないものを買ってこられても困るんだよ」
「私、デビットカードしか使いませんから。不必要な物は買いませんよ」
今度は亜希が口を挟む。
「可能性は低いけど、琳ちゃんが出ている間に管理人がこの別荘に来たら、残った人が住居不法侵入で大変なことになるかもしれないじゃない?」
それに、琳をはるかに凌ぐ金銭感覚のない零では、彰の言う通り、先々とても不安だ。渋々、琳は残ることに納得した。
「それじゃあ、零さんの車で零さんと亜希さんと僕が行ってくるよ」
松原さんがそう提案する。すると、琳がさらに不機嫌になる。
「え、私と彰さんが二人きりで待つんですか? 絶対に嫌です」
今度は譲らない。本当に怒ると、この娘は面倒くさい。
「そう言ってるから、松原さんはコイツと一緒に残ってよ。俺と零さんと亜希さんで行ってくるから」
「ああ、酷い。美人二人と狭い車内で過ごしたいというスケベ心丸出しですね」
「おまえは俺にどうしろと言うんだ!」
夫婦漫才は鬱陶しい。
「私と亜希さんの二人でも大丈夫」
零がそっと声を出す。
「いや、役に立たないかもしれないけど、男として女性二人をデンジャラスゾーンには行かせられない。俺も行くよ」
そう零さんに彰くんが訴える。
「僕も彰くんが一緒に行った方がいいと思うな」
洋が助け舟を出す。
結局、それで話がまとまり、居残り組と買い出し組が分かれた。
彰が自分が運転すると零さんに頼んだのだが、
「いい」
と一瞬で断られてしまった。それでも頼み込む彰くんに対して、零さんも琳と同じく目がすごく不機嫌になる。舌打ちまで聞こえたような気がする。
青ざめて項垂れた彰くんが後部座席に乗ろうとするのを、亜希が助手席に座るように促す。そもそも、車の免許を持っていない亜希が助手席に座っても役に立たないし。
そんなわけで今、琳に教わった24時間営業のスーパーへ、気まずい雰囲気の車内を包んだ零さんの車が走っている。
夜の道は静かで、ヘッドライトの灯りだけが細い道路を照らしていた。木々が影を落とし、まるでこちらを見下ろしているかのような錯覚に陥る。
「ごめんなさい」
ふっと零さんが声を漏らす。
私と彰がハッと顔を上げる。
「彰の心を傷つけた。私は、いつまで経っても人の心が解らない、自分勝手な女だ」
彰が上ずった声を出す。
「いや、確かに俺は気にしてるけど、零さんは俺のことなんか考えなくて良い。いつでも超然とした俺の憧れの人であってほしい。俺みたいなどうでもいい男のことなんか、いちいち気にしなくていいんだ。昔、鳳先輩と別れるとき助けてもらったから俺はもうそれだけで一生の恩をもらってるんだ」
彰も侑斗と同じで、結構自虐癖があるんだよな。
「どうでもよくない。私はどうでもいい人と付き合えるような人間じゃない」
零さんがこうやって誰かを気遣うのは、結構珍しい。でも、ちょっと嬉しい。
「彰くんはそこらにいる男性とは違うよ。自信を持ってよ」
私も便乗して彰くんを慰める。彰の気持ちがほぐれるのがわかる。
「亜希さんも気を使わなくていいよ。俺はあいつの言う通り、超美人二人といられるだけで十分満足だ。一生自慢できるし」
彰と侑斗は一生独身宣言してるしなあ。フ、二人とも一途だな。
車内の雰囲気が和らいできた頃、亜希たちを乗せた車はトンネルに入っていった。
夜のトンネルは少し不気味だ。特に長いトンネルは。ヘッドライトの灯りが無機質なコンクリートの壁を照らし、光が届かない奥の闇は深く広がっているように見えた。
「いや、このトンネル長すぎるだろう。高速のトンネルでもあるまいし」
彰が声を上げる。
「走行距離のメーターは既に20Km走ったことになっている」
零がそう呟く。
「彰くん…」
亜希は不安を言葉にして彰に向ける。
「ここのところ変なことばかりだからなあ。何者かが俺たちをこのトンネルに閉じ込めているのかも」
亜希はトンネルの先を見据えた。闇の中に視線を巡らせ、特別な力を重ねる。すると、ぼんやりとした光の向こうに確かに出口が見えた。距離はおよそ1キロ。しかし——
どうしても辿り着けない。
「確率振幅」
零さんが静かに言葉を発した。トンネルの暗闇の中、その声音は冷静でありながらも、どこか緊張を孕んでいる。
「このトンネルには、通過する無限の経路の可能性が走らされている。このままでは、私たちは永久に抜け出すことができない」
そう言いながら、零さんの瞳が蒼く輝いた。まるで澄んだ湖面に差し込む光のように、その輝きは一瞬でトンネルの暗さを打ち消す。
「道は私が創ってみせる」
零さんがアクセルを踏み込む。その瞬間、空間が歪み、目の前の光景が変わった。遠ざかるばかりだった出口が、ぐっと近づいてくる。
「零さん、すごい!出口が見えてきたぞ!」
助手席に座る彰が歓喜の声を上げる。彼の興奮は車内の緊張を少し和らげた。
零の力はやはり計り知れない。亜希も胸を撫で下ろし、全身に安堵が広がる。
だが——
「……出口が消えたぞ」
彰の声が、不吉な静寂を切り裂いた。亜希と彰くんは、すぐに零の方へと顔を向ける。
「……なぜ?ユウ……あなたはどうしてそこにいるの?どこへ行くの……?」
零の瞳から蒼い輝きが消えていた。彼女の視線は虚空を彷徨い、まるで見えない何かを追い求めているようだった。
亜希は息を呑んだ。零さんの体内——他我の種から無数の糸が張り巡らされ、それが黄色く不気味に光っている。異様な光景だった。
「まずい……!」
零の身体が傾ぎ、座席の背もたれに寄りかかる。意識が飛びかけている。
「彰くん!ブレーキを踏んで!零さんが意識を失いかけてる!」
亜希の叫びに、彰は即座に反応した。瞬時に右足を運転席側へと押し出し、力強くブレーキペダルを踏み込む。
ギギィィィ——ッ!!
車体が激しい音を立て、急停止する。衝撃が車内を駆け抜け、亜希と彰の身体が揺れた。
静寂。
息を整えながら、二人は窓の外を見やる。暗闇の中、トンネルの天井に設置された頼りない明かりが、ちらちらと瞬いていた。
——出口は、どこにもなかった。
亜希は唇を噛む。無限に続くこの回廊の中で、私たちは完全に取り残されてしまったのだ。