75、現在 滅びの狼煙
松原家から突然飛び出した亜希たちは、いきなり北軽井沢の景色の中に現れるわけではなく、ふっと気づけば、いつの間にか浅間山の麓を歩いていた。零によれば、北軽井沢にいる亜希たちの可能性を実際に形にしたのだという。しばらく歩くと、零さんの青いスバルの軽自動車が、何の前触れもなく目の前に止まっていた。狭い車内で、琳が指示を出し、零さんが運転してここへたどり着いた。
この五日間、亜希たちは別荘に備え付けの非常食でなんとか生き延びてきた。水道、電気、ガスはすべて止まっていたが、琳と彰の手で何とか使えるようになった。ただ、インターネット回線だけは使えない。寝る部屋は、彰と洋が一緒に、亜希たち女子は別の部屋に分かれて泊まった。琳が待望していたお泊まり会だったが、結局、女子会にはならなかった。
「信者でも自称信者でも構わないけど、あいつらの盲信の根拠って、あの空の白い帯だろう。どうして、有城龍斗がWEB上で異世界の侵略への対抗策とか言ってたけど、具体的に何なんだ?あの信者たちは、あれを何だと思ってるんだ?」と彰は疑問を投げかける。
この五日間、亜希たちはそのことについてあまり触れなかった。自分たちに起こっていることから目を背けていたのだろう。
「ここに来る前の話だけど…」と琳が語り始める。
「ええとですね。SNS上で一番多かった意見は、異世界が空から私たちを監視するための装置だって言われているんです。まあ、なかには全人類を操る装置だって言っている人もいました。それを有城さんが壊しまくってるってわけですね」と琳は説明を続ける。
「それで、全世界のバカ共が有城に操られてるって、なんだか本末転倒だろう」と彰が嘲笑しながら言う。考えてみれば、亜希たちは直接、有城龍斗に会ったために、世界で起きている事に逆に現実感がなくなってしまっている。きっと、関わりたくなかったからだろう。唯一、洋だけが空の現象について調べていた。その松原さんが、空の白い帯を撮影した画像をUSBメモリから取り出し、別荘にあったノートPCを起動させて差し込んだ。画像ファイルを開くと、全天写真で見ると、天空の帯は毎日姿形を変え、時々爆発するように太くなることもあった。
零さんがそれを見て眉をひそめる。
「今回の騒動の中心だと言われるこの白い帯、実は科学者の見解が驚くほど少なくて、情報操作されているとしか思えない。唯一ヒットしたのが、この白い帯の高度。35,000km以上、人工衛星と同じくらいの高度だ。だとしたら、地上からこんなに大きく太く見えるはずがない。これが僕が感じている違和感なんだ」と洋は言う。
「ええ、人工衛星だって地上から見えるじゃないですか?」と琳が尋ねる。
「お前、昼間、人工衛星を見たことがあるか?青空の中で白く浮かび上がってるんだぞ」と彰くんがいつものように琳を咎める。琳が不服そうに彰を睨みながら言う。
「じゃあ、彰さんはこの白い帯の正体をどう考えてるんですか?是非、教えてください」と琳は皮肉を込めて言う。最近、彰は弱くなったなと思う。しかし、反論の根拠がないと、今の時代ではそれだけで否定されてしまうのだ。
「多分…あれは何かのトリックだよ。あの帯は、地上から見た太陽の通り道にあるだろう。太陽からのエネルギーを使って、オーロラのように大気圏の電離層に何かを反射させているんだ」と彰くんは自信を持って言う。
「それ、SNS上で自称アマチュア気象学者たちが言ってることと同じじゃないですか。何の独創性もないですね」と琳が薄く笑いながら言う。彰くんは悔しそうに顔を背ける。
亜希が知る限り、あの空の白い帯は未だにその実態を掴めていない。世界中の天文学者の測定行為をも弾いている。つまり、空には何もないはずだ。なのに、私たちの肉眼には可視光線として映る。その帯は、双眼鏡や光学望遠鏡を使うと、うねるように動いているのが見える。無いはずのものが、私たちには見えてしまうのだ。
「彰の言う通り、ここに映っているものはただの映像。けれど、実際に起こっていることはもっと残酷なこと」
零の声は、どこか思いつめたようだった。亜希たちは彼女の言葉を静かに待つ。
「洋の言う通り、破壊されている太陽の鞘はこの地球の大気圏の外にある。そして――『自分たちの地球だけを守る教団』は、本来決してその存在を表さない太陽の鞘を突き止め、破壊している。それだけではない。太陽の鞘によって支えられている別の地球をいくつも滅ぼしている」
外の景色を見れば、夜空に白く輝く線が幾重にも交差していた。それはまるで無数の亡霊が、もがきながら浮かび上がっているかのようだった。
「滅んだ他の地球の生命の断末魔を、大気圏内の電離層に映し出している……」
しんと静まり返った部屋の中、誰もすぐには言葉を返せなかった。
「以前、私が言ったことを覚えてる? 自分の意思を自分で決められなくなる人々が増えるのは、人間の世界にとって危険だ、と」
零は視線を宙に彷徨わせ、何かを確かめるように言葉を続けた。
「今、その状況が加速している。その理由が、ようやく分かった。あの空に浮かぶ滅びの狼煙――あれがこの地球のすべての生物に対して、破滅の恐怖を訴えている」
部屋の窓の外、白線の残像がゆらゆらと揺らめいている。それはまるで、消えかけた記憶を必死に留めようとするかのようだった。
「急速に消え去った存在力は、あの映像を通して人間の精神に不安を植え付ける……そして、有城龍斗たちはそれを利用して人を操っている」
彼女の声は淡々としていたが、その内容の恐ろしさに私たちは息をのんだ。
「修一くんが言ってた……何百億もの大量殺人を有城龍斗がやっているって」亜希は身体を震わせる。
「……ごめん、零さん。よく分からないんだけど、空にある白い線、あの狼煙は、奴らがどこかの世界を破壊した証ってこと?」
私は思い切って尋ねた。
澪は静かに頷いた。
「破壊された世界が生み出した残像。それを目にした人間の恐怖の感情が、この地球の人々の肥大した恐怖を刺激し、操られ易くなっている」
また、沈黙が降りた。誰もすぐには言葉を出せない。
「でも……世界中の人間すべてが操られているわけじゃないでしょう? 実際、私たちはあの男を毛嫌いしているし、世界の中には操られない人もいるはずよ?」
長い沈黙を破るように、私は疑問を口にした。
零はふと指を動かした。左手の薬指をすっと前に差し出す。
すると、そこから金色の糸が現れ、亜希たちの胸へと伸びていった。
――松原洋の胸には、小さな金色の種が光っている。
――牟礼彰にも、小さなものが。
――小鳥谷琳の胸にも、同じくらいのものが見える。
――そして澪さんの胸には、それよりも大きな金色の種が灯っていた。
私は自分の胸を見下ろした。……けれど、何もなかった。
「やはり亜希さんにはない……」
零が静かに言った。
「これは『他頼の種』。別の言い方をすれば、『他我の種』ともいう。自分が行動するとき、どれだけ他人にその理由を求めるかを示すもの」
彼女は胸の種を指しながら続けた。
「私はある人に、自分の行動の理由を求めた。だから、こんなに大きい。あの空の狼煙は、この種を大きく育てる。恐怖という養分を与えて。この『他頼の種』は、人間の中になくてはならないもの……けれど、大きくなりすぎると、やがて根を張り、幹を育て、枝を伸ばし、その先に触れたものすべてが自分の意志になってしまう。そうなると、人は自分で考えることができなくなる。自我が、他我にすり替わってしまう」
亜希は自分の胸を再び見下ろす。そこには、何もない。
「亜希さんには、その種がない」
零の言葉は、どこか寂しげだった。
なぜ、亜希にはこの種がないのだろう?