73、現在 金曜日クラブの消失点
『ファースト・オフ』のマスターから得た情報をもとに、冬樹は木乃実亜希と葛原零に関わる3人の調査を開始した。マスターはフルネームを教えてくれなかったが、冬樹はもう一度木乃実亜希の母を訪ね、彼女がかつて口にしていた名前を思い出してもらった。
亜希が稀に口にしていた名は、橘侑斗、琳ちゃん、彰くん、松原さん。葛原零を除いた4人の名前だ。しかし、マスターは橘侑斗のことを語っていなかったため、彼を調査対象から外す。そういえば浅川凪もどこかでこの名前を口にしていた気がするが……。
琳という女性については、まだ大学に通っているらしく、亜希の母が彼女の在籍する学校を知っていたため、大学を訪ねることで正体を突き止めた。
小鳥谷琳。
全国的に有名なグループ会社の社長令嬢で、歳の離れた兄が専務を務めている。
冬樹は彼女の大学へ向かい、交友関係を洗い出すことにした。木乃実亜希や葛原零とは違い、小鳥谷琳の交友関係は比較的広かった。調査の手がかりを探るべく、まず彼女が所属する天文研究部の部室を訪ねる。
冬の冷たい風が吹き抜ける大学のキャンパスを抜け、部室棟へ向かう。廊下に差し込む陽射しは柔らかいが、部屋の中はどこか薄暗く、閑散としていた。
ドアを軽くノックし、冬樹が中を覗くと、二人の部員がスナック菓子を食べながら、どう聞いても天文とは関係のない話題で盛り上がっていた。
冬樹は手土産としてケーキを差し出す。部員の二人はややぽっちゃりとした体形で、一人は逆三角形の顔立ちをしており、もう一人は丸顔だった。
「ええと、琳のことですか?」
ケーキを皿に移しながら、丸顔の女性が言った。細面の女性は紙コップを用意し、インスタントコーヒーを淹れながら続ける。
「琳はまあ、幽霊部員ですよ。っていうか、この部活、ほとんど全員が幽霊部員ですけどね」
丸顔の女性がフォークをケーキに刺しながら、少し考え込むように言う。
「琳って、お嬢様なんだけど、ああいう社交的な場が苦手みたいでね。だから、自分の地元から離れたこの大学を選んだらしいですよ」
「最近は学校にも来てないですね。この部室にもまったく顔を出していません」
細面の女性は、関心なさそうな口調で答えた。
冬樹はふと、壁に飾られた一枚の写真に目を留める。
アンドロメダ大銀河の鮮明な写真。
天文サークルの部室らしく星景写真が何枚か飾られていたが、それらはどれも素人が撮影したようなものばかりで、この一枚だけが際立っていた。
「これは……誰が撮影したんですか?」
冬樹が尋ねると、丸顔の女性が答えた。
「ああ、それは琳が知り合いの人から貰ったものですよ。何か凄い写真ですよね」
この写真は、『ファースト・オフ』にも飾られていたものと同じだった。
「その写真をくれた人の名前は?」
細面の女性が考え込む。すると、丸顔の女性がフォークを止め、思い出したように声を上げた。
「確か、彰さんから貰ったって言ってましたね。……あれ、彰さんって誰だっけ?」
彰くん――木乃実亜希の母が口にした名前だ。
「ああ、思い出した。文化祭の時に琳が連れてきた、すごく細い人。凄く仲良さそうに話してたけど、恋人って感じではなかったなぁ」
細面の女性が補足する。
二人とも、彰という人物の印象をはっきり持っていないようだ。それどころか、木乃実亜希の両親や葛原零に関わる人々の話を総合すると、まるで意図的に情報がぼやかされているような気さえする。
冬樹はぼんやりと、何か見えない力が働いているのではないかと感じた。
「そういえば、琳は知らなかったみたいだけど、彰さんって日葵先輩の想い人だったんだよ」
細面の女性が言う。
「日葵先輩って、松原日葵先輩のこと?」
丸顔の女性が尋ねる。
松原――最後の一人の名前が出てきた。
「琳は日葵先輩とは会ったことがないと思うけどね。先輩は卒業してからほとんど学校に来なくなったし。でも、先輩のお兄さんが彰さんの知り合いでさ。その先輩のお兄さんが、一昨年の学祭に彰さんと一緒に来たことがあって、その時に琳と彰さんが何か言い争いになって……それから、意外と仲良くなったみたいなんだよね」
「そうそう、その後の学祭ではすっかり仲良くなってたよね」
「琳が言ってたよ。日葵先輩のお兄さんと彰さん、それに、すごい美人二人と一緒に、**『金曜日クラブ』**で毎週集まってたって」
金曜日クラブ――
冬樹はその言葉を反芻した。『ファースト・オフ』に集まっていた三人の情報はこれでほぼ揃った。
小鳥谷琳と木乃実亜希が同時に消息を絶ったのは、決して偶然ではないはずだ。
となれば、もう一人の松原洋の実家へ向かい、彼の所在を確認するしかない。
冬樹は二人に礼を言い、大学を後にした。
松原洋の実家は、街からかなり離れた田舎にあった。広い敷地に佇む、蔵のある古風な屋敷。周囲には背の高い木々が生い茂り、静寂に包まれている。鳥の鳴き声さえ遠くにしか聞こえず、人の気配はまるで感じられなかった。
冬樹は車を道端に止め、敷地内に足を踏み入れる。門をくぐると砂利が細かい音を立てた。玄関の前に立ち、呼び鈴を押す。
しばらくして、インターフォンから若い女性の声が響いた。
「少しお待ちください」
数秒後、引き戸がゆっくりと開き、清楚な雰囲気を纏った若い女性が現れた。品のある顔立ちに、落ち着いた仕草。噂に聞いていた松原日葵に違いなかった。
冬樹は名乗り、松原洋に会いたいと伝える。すると、彼女は眉をひそめ、困ったように唇を噛んだ。
「ごめんなさい。兄は今、どこにいるのか全く分からないんです」
冬樹の表情がわずかに強張る。
「行方不明……ですか? いつからです?」
「先週の土曜日の午後二時二十五分くらいからです」
彼女は妙に具体的な時間を口にした。その正確さに、冬樹の警戒心がさらに研ぎ澄まされる。
「どうして行方不明になったのか、何か心当たりは?」
日葵は少し考え込み、言葉を選ぶようにして答えた。
「あの日、この家でトラブルがあったんです。兄の友人の女性が三人と、彰さんという方がいらしていました。その時、地区の区長さんたちが突然やってきて、兄の友人たちを追い出すように言ったんです。理由は分かりません。でも、その直後でした——」
彼女は戸惑いの色を滲ませながら続ける。
「『地球を守る教団』と名乗る人たちが大勢押し寄せてきたんです。そして……兄の友人の一人が、不思議な力を使って、五人ともこの家から消えてしまったんです」
冬樹は鋭く目を細めた。それは葛原零の力によるものだろう。
「その後、押し寄せてきた人たちはどうなったんですか? 貴女も、この家も無事のようですが」
日葵は喉の奥にもどかしさを詰まらせるように、一瞬言葉を失った。
「……兄たちが消えた後、祭りのように騒いでいた人たちが、急に動きを止めたんです。まるで操り人形の糸が切れたみたいに。それから三十分ほどすると、みんな静かに去っていきました」
零の力によるものなのか、それとも『地球を守る教団』の指導者・在城龍斗の判断によるものなのか、今の時点では分からない。
「お兄さんたちがどこへ行ったのか、何か手がかりはありますか?」
日葵は記憶を探るように目を伏せた後、ぽつりと呟いた。
「そういえば……彰さんと話していた女の子が『北軽井沢』って言っていた気がします」
北軽井沢——遠すぎるほどではないが、近いとも言えない距離。彼らがそこに向かった可能性は高い。
冬樹は日葵に礼を述べ、松原家を後にした。
五人が一緒に姿を消した理由は分かった。
だが、四人は葛原零に守られているはずだった。椿優香は「彼女は他人の守り方を知らない」と言っていたが、それはどういう意味なのか? これから何が起ころうとしているのか? そして、自分に何ができるのか?
冬樹は思考を巡らせながら、国道へと続く道へハンドルを切った。エンジン音が静寂を破り、冬樹はアクセルをわずかに踏み込んだ。