72、現在 彼女の謎は世界も知らない
初夏のこの街は、予想以上に暑かった。愛車の運転席に乗り込んだ冬樹は、上着を脱ぎ、これまでに調べ上げたメモを再確認する。
椿優香に頼まれ、もう一度夕日野を訪れたのは三日前。だが、肝心の木乃実亜希と葛原澪は、どこにもいなかった。
木乃実亜希の家族については、知り合いのライターを通じてすぐに調べがついた。
——父・健一(51歳)、母・茉奈(49歳)。木乃実家の長女であり、一人娘である亜希は、生まれてからずっと両親と同居し、ほとんどこの街を出たことがない。23歳にして、毎年税理士に確定申告を依頼するほどの収入を得ている。本人に隠すつもりはなかったようだが、作家業のほかにもいくつかの仕事を掛け持ちしており、その詳細は出版社の意向で伏せられているのだろう。
「いつ寝ているんだ?」
平均睡眠時間が五時間を超えない冬樹でさえ、そう思った。
木乃実亜希は、この街では名前を知られているが、それほど強い関心を持たれているわけでもない。中途半端な有名人だった。
冬樹は名刺を持って彼女の実家を訪れ、両親と対面した。だが、彼らの話によれば「友人と少し出かけてくる」と連絡があったきり、その後の音信はないという。
冬樹は、その友人が誰なのか知りたかったが、両親は娘の交友関係を把握していなかった。そこでふと思いつき、木乃実亜希の子ども時代について尋ねてみた。
しかし、母親は首をかしげるばかりだった。
「亜希の昔のことは、よく覚えていないんです」
「たった一人の娘さんですよね?」
冬樹がそう問い返すと、母親は困ったような顔をした。
とりあえず、両親から聞き出したエピソードをメモに記録する。
——賞を取ることが多く、賞状やトロフィー、賞品をよく持ち帰っていたが、いつも粗雑に放置していた。母親に咎められると、まとめて押し入れの段ボールに放り込んでしまっていた。受賞歴は文系・理系・体育会系とバラバラで、特定の分野に秀でていたわけではない。いや、むしろあらゆる分野に秀でていたとも言える。
「可愛らしいお子さんだったんでしょう?」
芸能人やモデル並みの容姿を持つ彼女だ。幼少のころから、その片鱗はあったはずだ。
「さあ……そうなんでしょうか。あまり、そういう話は覚えていません」
母親の曖昧な返答に、冬樹は違和感を覚える。
この状況は、作家デビュー後の木乃実亜希とも重なる。彼女は「優れすぎている」のに、誰もが必要以上の関心を示さない。いや、示すことができないように、存在が操作されているかのようだった。
冬樹の脳裏に、その木乃実亜希よりさらに美しい、葛原零の神秘的な姿が浮かぶ。
冬樹は、木乃実亜希を調査する傍ら、葛原零についても情報を集めていた。
やはり、彼女は木乃実亜希以上に不可解な存在だった。
法務局で彼女の家の所有者を調べると、名義は本人になっていた。弟・葛原修一と二人暮らし。だが、彼女の両親についての情報は、ほとんど調べる事が出来なかった。
近所の人々に話を聞くと、「ある時、気づいたら葛原姉弟がそこに住んでいた」と口を揃える。しかし、弟の修一は高校時代までスポーツに秀で、地元のスターだったため、彼のことを知る者は多かった。
『私の分身』
葛原澪は、木乃実亜希のことをそう言った。
二人は異常なほど美しかったが、外見も、物腰も、まるで似ていない。
冬樹は、葛原零を思い浮かべながら考える。彼女は、あの女王ベルティーナと同等の存在なのだから、謎が多いのは当然だ。その強大な力をもってすれば、実在の操作など簡単にやってのけるだろう。
だが、木乃実亜希はどうだ?
普通の人間としても、特別な能力を持つ者としても、中途半端だ。
しかし——
『木乃実亜希こそが、最大の切り札だよ』
椿優香はそう言った。
地球の外から転創してきた世界を再生できる力を持つのは、ベルティーナや葛原澪ではない。
本当に守るべきものは——木乃実亜希なのだ、と。
冬樹は車を発進させ、約束の場所へ向かった。
WEBでたまたま見つけた木乃実亜希のサイン会。その場で、彼女と親しげに話していた女性がいるという情報を得た。
冬樹は、その女性を知っていた。
浅川凪。
新人画家。知り合いの編集者が、ある新人作家のデビュー作の表紙を彼女に依頼した際、その場に立ち会ったことがある。
浅川凪は、自分の絵を安売りするのを嫌がっていた。
冬樹は、知り合いの編集者に頼み、彼女の連絡先を聞き出した。
浅川凪は、しばらく夕日野を離れていたが、現在、実家に戻ってきている。
冬樹はアクセルを踏み込んだ。
冬樹は、浅川凪に指定されたカフェ「ファースト・オフ」に向かった。
ここは峠の途中にひっそりと佇む西洋風の建物で、学生時代に二人が会ったことのある場所だという。
駐車場に車を止めると、涼やかな風が頬を撫でた。鬱蒼と茂る木々の間から木漏れ日が揺れ、昼下がりの穏やかな空気を作り出している。冬樹は軽く伸びをし、店の扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
若い女性のウェイトレスが笑顔で迎える。店内は落ち着いた雰囲気で、木の温もりが感じられるインテリアが心を和ませる。ほのかに漂うコーヒーの香りが心地よい。
冬樹は軽く会釈し、店の奥に座る浅川凪の元へ向かった。
「わざわざ申し訳ありません」
型通りの挨拶をすると、彼女は目を落としていた本から視線を上げ、眼鏡の縁をそっと直した。彼女が読んでいたのは、木乃実亜希の作品だった。
「見てください」
凪は視線で、すぐそばの書棚を示す。そこには、まだそれほど刊行されていないはずの木乃実亜希の作品が、すべて揃っていた。
「……全部、ここに?」
驚いて彼女の顔を見ると、凪は読んでいたハードカバーを開き、直筆のサインを見せた。
「今でも亜希はここに来ているみたいですよ。この店に置かれている本、全部サインが入ってますから」
眼鏡の奥から、嬉しそうに語る。
「浅川さんは、学生時代、木乃実亜希先生とは親しかったんですよね?」
まずそれを確認すると、彼女は少し首を傾げた。
「そうですね。……亜希の周りにたくさんいる友人の一人だったかもしれません」
「友人の一人?」
冬樹は違和感を覚えた。木乃実亜希にそれほど多くの友人がいたという話は聞いていない。
その気配を察したのか、凪は慌てて首を振った。
「ごめんなさい。その、何ていうか……亜希には友人はたくさんいたけれど、親しい友人は居なかったと思うんです。だから、私も“あまり親しくない友人の一人”だった、という方が正しいですね」
——親しい友人はいたが、親しすぎる友人はいなかった、ということか。
冬樹は、テーブルに置かれたメニューを手に取り、アール・グレイを注文した。
運ばれてくるまでの間、もう少し彼女から話を聞いてみることにする。
「高校時代の彼女はやはり目立ちました? あれだけの容姿と才能を持っていたのだから」
「そうでもなかったです。……今思うと、亜希自身が自分の才能を警戒して隠していたのかもしれません」
彼女は遠い目をしながら続ける。
「とにかく、やれば何でもできる娘だったんです。でも、その先に何の目標も持っていない感じで。……あと、異性との噂はこれっぽっちも聞いたことがありません。ああ、でも年下の男の子……確か橘くん? 彼にカウンセリングをしていたって話は聞いたことがあります」
興味深い話だったが、今は木乃実亜希の居場所を突き止めることが最優先だ。
そこへ、ウェイトレスが紅茶を運んできた。
「木乃実亜希さんの話ですか?」
彼女はカップを丁寧に置きながら声をかけてくる。
「亜希さんたち、よくこの店に来てくれたんですよ」
——サイン入りの本があるくらいだから、それなりに頻繁に訪れていたのだろう。冬樹はそう考えていた。だが——
「本当に、あの件が起こる前は……あの、あり得ないくらい綺麗な零さんや、他の三人と一緒に。いつも二時間以上、いろんな難しいことを楽しそうに話していました」
——零さん?
冬樹の脳裏に浮かぶのは、ただ一人の存在。
葛原零。
「ひじりちゃん、別のお客様のことをそんなに喋っちゃダメだよ」
奥から、背の高い男性——おそらくマスター——が声をかける。
だが、冬樹はもう平静を保てなかった。
「木乃実亜希さんと、葛原零さん。他にも彼女たちと親しくしていた人を知っているんですか?」
マスターは困ったような表情を浮かべる。
「お客様、それは個人情報になりますので……」
冬樹は咄嗟に言い訳を考え、口にした。
「申し訳ありませんが、どうか教えてください。私は今、彼女を探しているんです。木乃実亜希先生は現在、行方不明なんです。私は彼女の両親から捜索を頼まれています」
事実と虚言を織り交ぜた言葉。だが、懸命な様子が伝わったのか、マスターは少し逡巡した後、ため息をついた。
「……問題のない範囲でしたら、お教えします」
冬樹は手帳を取り出し、マスターから聞いた情報を急いで書き留めた。
—-
その後、礼を言って店を出る。外は夕暮れ時に差しかかり、淡いオレンジ色の光が木々の隙間から差し込んでいた。
「……亜希が行方不明って、本当ですか?」
「本当です」
凪の問いに即答する。
「貴女に会ったのも、手がかりを探すためです」
彼女は沈黙し、そしてぽつりと呟いた。
「ネットで炎上してた、あの件が関係してるのかな……だから気をつけなさいって言ったのに」
凪の表情が、急に暗くなる。
「ああ、その件ならもう片付きましたよ」
冬樹は微笑んでみせた。邦城邦之本人が自身のブログで「僕のいうことをこれっぽっちも疑わない読者相手に、書くものは何もない」と公言したからだ。作家というのは、本当に理解しがたい存在だ。
「浅川さん」
冬樹は彼女を見つめ、真剣な表情で言った。
「今日は本当にありがとうございました。ここへ連れてきてくれて」
姿勢を正してお辞儀すると、凪は逆に申し訳なさそうな顔をした。
「……亜希のこと、お願いします」
それが、二人が交わした最後の言葉だった。