71、現在 命の羽根
在城龍斗は、突如として自分と地上から集めた知成力を繋ぐ操線を断たれた。その瞬間、支えを失った身体がぐらりと揺れる。
変数操作線の切断とともに、彼が支配するシニスの力も弱まり、今や自ら制御できる知成力はほんの僅かしか残されていない。足元の氷の大地が傾き、共にいた配下の者たちとともに、無秩序に崩れ落ちていく。
「よくやった、侑斗!」
史音の顔が喜びに綻ぶ。彼女の背後では、侑斗が先ほど放った攻撃によって大きく傾いた氷の大地が、辛うじて繋がれた状態を保っていた。
「侑斗! もう一度その短剣を振るえ! アイツらごと、この継ぎ足された氷の大地と極子連鎖機構を叩き落とせ!」
史音の叫びを背に受け、侑斗は短剣を構え直した。蒼い刃の輝きが鋭さを増す。しかし、その瞬間、突如として黄色い操線が侑斗の身体に絡みつく。
「くっ……!」
それは龍斗が紫苑や恵蘭に使用した『他我の種』に向かって放ったものと同じ糸だった。操線が絡みつくたびに、侑斗の身体が締め上げられるような感覚が襲いかかる。
傾いていた氷の大地が、再びゆっくりと起き上がり始め凍りついていく。氷の先端には、誰かに支えられながら立つ龍斗の姿があった。彼の傍らには、怪しく微笑む影が佇んでいる。
「教祖様……情けないお姿ですね。今、地上から引っ張ってきた知成力の操作線を、貴方に繋ぎなおします」
影の言葉に頷いた龍斗の瞳が、再び冷たい光を宿す。新たな知成力が彼の身体を駆け巡り、黄色い操作線の力が増幅される。
「ぐっ……!」
黄色い糸がさらに強く侑斗を締め上げる。呼吸が苦しくなり、膝が震える。
「侑斗、しっかりしろ!」
史音の声が響く。その目は龍斗を支える影へと向けられていた。
「フィーネ……ラスボスのお前がこんなに早く出てくるとはなあ!と言ってもおまえは1人じゃないからな」
侑斗の右腕のサイクル・リングが光を放つ。その輝きが全身を包み、龍斗の操作線を一瞬にしてかき消した。
「橘侑斗……思ったより面倒な存在ですね」
フィーネが冷たく言い放つ。その瞳が鋭く光ると、無数の弾丸のようなエネルギー弾が放たれ、侑斗の足元の氷を削り取る。足元の支えを失い、侑斗の身体が奈落へと沈んでいく。
「侑斗!」
恵蘭が最後の力を振り絞り、氷の羽根を操る。その羽根が侑斗の身体に巻き付き、紫苑の羽根の綱と絡み合いながら、かろうじて彼を引き上げる。
「ふむ……これ以上フライ・バーニアを破壊すると、後が厄介ですね」
フィーネは宙に浮かびながら、余裕を持った笑みを浮かべる。
「龍斗、彼は私が対処します。後の“死に損ない”たちは貴方に任せます」
その言葉とともに、彼女は侑斗へと一直線に迫ってきた。
恵蘭がか細い声を振り絞る。
「……橘侑斗……貴方は修一の言う通り、きっと私たちに必要な人です……だけど、貴方はまだ、自分の力を……コントロールできていない……」
「……そうかもしれない……だけど、俺はアイツを許せない」
侑斗の声には強い決意が込められていた。
「俺が望む世界は、アイツのそれとは正反対だ。個人の主観で世界の姿を決めること……それが間違ってるんだ。世界は揺れ動くものだ。人の想いが、その不確かさの中でそれぞれの正しさを決める。未来を決めることは誰にもできない。その代わり、人はあらゆる可能性を選ぶことを許されているんだ……」
侑斗は、ぶれることなく短剣をフィーネの正面に構えた。
「俺はもう、黙って立っているつもりはない!」
フィーネの瞳から放たれる弾丸のようなエネルギーが、侑斗を狙う。しかし、侑斗は短剣で全てを弾き返していく。だがそのたびに、短剣の光が少しずつ失われていく。
(このままでは……)
フィーネの攻撃は存在力を奪うものだ。短剣の力の底は知れないが、このままでは史音たちを龍斗の攻撃から守ることはできない。
その時、紫苑と恵蘭の声が重なった。
「橘侑斗……貴方に頼みがあります」
氷の羽根を揺らしながら、姉妹が侑斗を見つめる。
「私たち姉妹からの最後のお願いです……貴方のクリスタル・ソオドでもう一度、あの継ぎ足した氷壁を砕いてください」
「……でもまたあの怪物女に戻されてしまう」
姉妹の瞳に迷いはなかった。
「いいえ、そうすれば、フィーネも龍斗もそちらに気を取られます。その後は……私たちに任せてください」
史音たちを守るように立つ侑斗の姿が邪魔になり、龍斗は回り込むように動く。しかし、実弾を使う部下を失った彼に残されたのは、知成力で操つる変数操作線の攻撃だけだった。
「姉さま!」
侑斗の代わりに、力を失いつつある恵蘭と紫苑が、互いの羽根を絡ませて、どうにか龍斗の攻撃を防ぐ。
「橘侑斗! 私たちの願いを聞いて!」
紫苑の叫びが氷の大地に響く。
侑斗は一瞬、瞳を閉じた。右腕のサイクル・リングに意識を集中させ、今の自分に引き出せる限界の力を解放する。そして、東のクローズの裂け目めがけて、青い閃光の刃を放った。
鋭く輝く刃はフィーネの影をすり抜け、そのまま轟音とともに氷の大地を揺るがせる。氷の層が大きく傾き、連鎖するように新たな裂け目が広がった。
龍斗も、フィーネも、目を奪われる。
フィーネはすぐさま力を込め、傾いた氷の大地を元に戻そうとする。龍斗もシニスの力を解放し、地盤を安定させようと試みる。しかし、その背後から、紫苑と恵蘭の操る女王の羽根の綱が、極子連鎖機構のフレーム・アンテナを捕えた。
二人の電磁力操作により、羽根の綱は外気よりも冷たい極低温の帯となり、瞬く間に凍りついていく。
紫苑と恵蘭は、その凍った羽根の綱を掴んだまま、フィーネが開けた穴――侑斗が落ちた穴へと飛び込んだ。
修一が咄嗟に手を伸ばす。
「駄目、修一。これで良い」
紫苑がその手を払う。
フィーネの空けた穴から吹き込む外気が、冷たく透き通った氷となって下から這い上がり、紫苑と恵蘭の身体を徐々に包み込んでいく。
「フィーネ、氷の大地を直せたとしても、私たちの氷の羽根の綱と繋がったフレーム・アンテナは、もう傾いたままだよ。今までのように、正確に太陽の鞘を捜索することはできない」
姉妹のどちらが言ったのか分からない。
「でも、この氷の羽根を切断すれば、その反動で極子連鎖機構そのものが崩れ落ちる。もう、誰にも触れない」
フィーネは氷上に残った侑斗たち三人に向かってくる。
侑斗は即座に飛び上がった。
フィーネの瞳が弾丸を発射する前に、短剣の切っ先を彼女の胸へと突き立てる。
「くああ……っ」
フィーネは微かに呻き、全身をストールのような布に包まれながら、ゆっくりと消えていった。
やがて、姉妹の操る深紅の羽根が螺旋を描きながら広がり、修一、史音、侑斗を包み込んでいく。
羽根の繭に包まれた三人は、氷の大地を滑るように運ばれていく。
「女王、三人を頼みます」
姉妹の声が重なる。
フライ・バーニアの真下から、カーディナル・アイズの光の翼が出現し、羽根の繭をしっかりと支えた。
恵蘭が掴んだ凍った深紅の羽根の綱に、紫苑の指がそっと重なる。
「姉さま……」
恵蘭の微かな吐息が、凍てつく空気の中に溶けていく。
氷の外気に包まれた二人は、そのまま透明な氷の檻へと閉じ込められていった。
「史音……これが精一杯だけど、貴女ならきっと、上手くやれる」
紫苑が少しだけ表情を和らげ、微笑む。
凍りつく二人に繋がれた命の羽根が、極子連鎖機構のフレーム・アンテナを大きく傾けていた。
フライ・バーニアが存在する限り、美しき姉妹の姿は、永遠にそこに残るのだろう。
「畜生……! 分かったよ。後はアタシに任せろ。全部、全部引き受けた……!」
史音は泣きながら叫ぶ。
姉妹の命の羽根に包まれ、三人は地上へと降りていく。
修一は、じっと空を見上げたまま、微動だにしない。その震える肩を見るのが忍びなくて、史音と侑斗はただ黙って下に座り込んだ。
史音の瞳は赤く腫れ、侑斗もまた、気づかぬうちに顎に当てた手の甲に、自分の涙を感じていた。
静かな空気の中、史音がそっと左手を伸ばし、侑斗の右腕を掴む。
彼女の指先はかすかに震えていた。
それが怒りによるものなのか、哀しみからくるものなのか、侑斗には分からない。ただ、抑えきれない何かが、そこにあった。
「なあ……」
侑斗は、心の奥底から這い上がってきた想いを、言葉にする。
「世界のためとか、誰かのためとか……そんなの、どうでもいい。でも、人の想いが、そんなものの犠牲になるような世界なら……いっそ滅びてしまえばいいんじゃないのか」
それは、他我の種を持たない者の、純粋な心からの言葉だった。
だが、それでも――
指示された道を進まなければならない。
想いを浴びた者の責務なのだ。
ベルティーナは、真空の瞳を細め、息を詰めた。
「ベル……ありがとう。あの二人の想いを、信じてくれて」
静かに言う優香の声に、ベルティーナは俯き、唇を噛みしめる。
「優香……貴女は、卑怯です」
ベルティーナの声は震えていた。