70、現在 静かなる一閃
東のクローズの端に、新たに継ぎ足された氷の大地が広がり、その上にそそり立つ新しい極子連鎖機構。紫苑の操る女王の赤い羽根が、それを包み込み、まるで鮮やかな紅い光が氷の冷たさを溶かすようにゆっくりと舞い踊っていく。
「紫苑、凄いな。あっという間に自我を取り戻したのか?」
龍斗は感心したような表情を浮かべ、手をゆっくりと引っ込めた。彼の瞳には薄暗い瞳孔が覗き、その冷徹さがさらに際立つ。
「女の感情を利用したな。私のちっぽけな嫉妬心に付け込んだな」
紫苑は顔を強張らせ、龍斗を鋭い眼差しで睨んだ。
「反動だな。紫苑ほどの知成力を持つ者を、一瞬でも傀儡の糸から外せば、当然の結果だ」
史音が冷静に呟くと、その声が空気を震わせ、重く響く。
「実にくだらない」龍斗は吐き捨てるように言った。その口調に含まれるのは、相手を無力化した後の無慈悲な軽蔑だった。
「僕は先ほど『他我の種』とそこから伸びる枝を可視化して見せただけだ。人の世界は操っている者こそ違え、皆、内に潜めた『他我の種』を操り、操られてできているんだ。バラバラに操るより、この世界のために僕がまとめて操ったほうが実用的な価値があるだろう。」
その言葉が、まるで響き渡る鐘の音のように彼の周囲に広がり、重く圧し掛かる。
「女王や修一の姉だってそれができるけど決してやらない。それはその先にあるのがおまえのような男の独善理想が見えるからだ」
恵蘭が苦しげに呟きながら、胸元に手を押さえ、その傷から血が噴き出すのを感じていた。
「一度僕が『他我の種』に触ると、触られたものは、その場所から肉体を破壊することができる。だから紫苑、君の場合はもっと強烈なものを浴びせられるよ。」
龍斗が指を紫苑に向けると、史音はすぐさま固有状態破壊銃を取り出し、龍斗が指を向けた先の黄色い傀儡の糸に向かって狙いを定める。銃弾が放たれると、傀儡の糸が途切れた。
「紫苑、極子連鎖機構を破壊しろ!」
紫苑はその命令を背に受け、カーディナル・アイズの赤い羽根を再び操り、真っ赤な羽根が激しく舞い上がる。羽根がフレームアンテナを包み込んだ瞬間、低い響きとともに、数十発の物理的な弾丸が紫苑を襲う。
紫苑はその白い羽根で弾丸を防ぐが、いくつかの銃弾が彼女の身体に深く突き刺さる。痛みに顔を歪めるが、それでも羽根を操り続ける。
その時、龍斗の背後から、黒い喪服のようなスーツを着た者たちが数人現れ、それぞれがライフル銃を構えて、静かな迫力を放つ。
「フライ・バーニアは巨大な知成力に耐えられないからね。こういった現代兵器も逆に役立つ。僕も集めた巨大な知成力を使っているが、シニスの不存在の力で打ち消している。それでも万が一に備えてね。」
紫苑がその場で崩れ落ちると同時に、極子連鎖機構を包んでいた赤い羽根が雪のように剥がれ落ち、氷の大地に静かに散っていった。
その様子を見て、龍斗は満足げに史音達五人に視線を流し、軽く肩をすくめた。
「さて、それじゃあもう良いかな。」
背後の男たちに合図を送ると、男たちは銃口を五人に向け、静かな殺気を放つ。
「北のラクベルを確認した方が良いぞ」
史音が低い声で呟く。
「北のラクベルだって?」
龍斗は一瞬躊躇し、男たちの行動を制止する。
史音は一歩前に出て、龍斗を睨みながら、冷徹に言い放つ。
「お前たちの極子連鎖機構は、北のラクベルから空間座標を映して太陽の鞘の破壊活動をしてるんだろう。でなきゃ、いくらシニスの存在力捜査でも正確な太陽の鞘の位置を突き止めることはできない。」
不敵に笑い、彼女は龍斗に立ち向かう。
「まさか、ここに来るまでにラクベルを操作したというのか?」
史音の言葉はハッタリだった。ここまで来る途中、どこにも寄り道してはいなかった。
「北のラクベルはクァンタム・セルの窓から一旦、このフライ・バーニアに降り立った他の地球の戦士が使うセル・バーニアが目的地の銀計と端位を合わせて、向かうべき地球の位置測定に使ったものだ。フライ・バーニアの本来の要所だ。だからお前たちに使われないように少し仕掛けをしてきた。」
史音は意図的に嘘をつけない。信じる龍斗だからこそ、少しの戸惑いを見せた。
「・・・史音・・」
修一が信じられないという表情で史音を見つめる。史音は背後の修一の掌に何かを書いて伝え、短い沈黙が流れる。
しばらくして、彼女は肩をすくめながら言った。
「駄目だな・・・アタシにはやっぱり嘘はつけない。そんな暇はなかったよ。最後に龍斗、アンタの最終目的の答え合わせをしてくれよ。」
龍斗はつまらなそうに答える。
「お嬢ちゃんには解っているだろう。世界が不安定なのは、世界の背後で存在力とシニスが争っているからだ。だから逆説的に、シニスの存在をこちらで決めて形にし、世界に発現させれば、存在力は底に沈み、表面にいる者の知成力のみで安定した姿となる。本来、形を崩すシニスを知成力で形を持たせ、知成力のある者が現実を創っていく。それが世界の本来の姿だよ。」
「ハッ、お前の言う知成力は個人の力じゃないだろう?お前が『他我の種』を操って手に入れた他人の知成力だ。お前は史上最悪の独裁者で独善者だ。」
言い放った後、史音は背後を向き、合図を送った。
すると、紫苑と恵蘭の二人から、音速で伝わった磁力線が再び、赤い羽根を操り、今度は龍斗めがけて襲い掛かる。
しかし、龍斗を包んでいた羽根はドロドロと溶けていく。
「往生際が悪いな。僕はシニスを操れるんだよ。形のある者は全て無にすることができる。」
龍斗が冷笑を浮かべながら言うと、再び男たちの銃弾が五人を襲った。
紫苑と恵蘭は必死に羽根を操り、盾とするが、いくつかの銃弾がすり抜け、史音たちの肉体を傷つける。
「紫苑!恵蘭!もういい。ここから離れるぞ!」修一が必死に叫ぶ。彼の声は崩れた氷の世界の中で、震えながらも強く響いた。
「私はもう助からない。私たちが盾になっている間に、貴方たちだけでも逃げて。」恵蘭は弱々しく、だがどこか強い決意を感じさせる言葉を吐いた。彼女の顔には疲れが色濃く浮かび、足元がふらついている。
「ごめん、恵蘭。付き合わせちゃったな。でも、私も最後まで一緒だ。」紫苑は少しの間も躊躇わず、羽根で作り続ける壁の隙間から顔を覗かせる。その言葉に、紫苑の表情は少しだけ緩んだが、目はどこか遠くを見つめている。彼女の羽根はボロボロで、血がにじんだ傷口を覆いきれずにいる。
「どうか、こんなことが世界を包まないように……」恵蘭が地面に倒れながら、その祈りのような言葉を呟いた。彼女の目からは涙がこぼれ落ち、血と交じり合っていく。
「恵蘭!」紫苑はその小さな体を抱きしめ、慟哭の声をあげた。心からの叫びが空気を切り裂くように響く。その痛みは言葉にできないほど深く、重かった。
「在城龍斗!ここでアタシ達が死ねば、お前も終わりだ。ベルや修一の姉さんが、必ずお前をぶち殺す!」史音が叫ぶ。彼女の声は力強く、それでいて怒りに満ちていた。
「僕の集めた知成力は、彼女達にも対抗できるさ。」龍斗は冷徹に笑い、信念と誇りを胸に、かすかな震えを見せながらも自信を崩さない。
倒れた紫苑と恵蘭に寄り添い、修一の肩が震え、怒りと悲しみの交錯する表情を見せる。その瞳の奥には、今まさにすべてを失うかのような絶望が映し出されていた。
その瞬間、世界が震えた。フライ・バーニアの彼方から、金色のオーロラが天を突き刺すように差し込んでくる。その光は、まるで新たな運命を告げるかのように煌めいていた。
「ふむ、低緯度オーロラか?」龍斗は冷静にそれを眺めながら、深く息をついた。「だがこれで全てが上手くいく。何故ならこれこそが正しいからだ。僕の創る世界こそが、唯一人が正しく存在できる世界なんだ。」その言葉には、しっかりとした確信が込められている。
「どうして……こんなことをしなければ世界を救えないのか?人は世界を創るために存在するのか?」侑斗は金色の光を浴び、その中で心の奥から湧き上がる疑問を呟いた。
「違う!ただ存在するためだけの存在なんて、無意味だ。」
恵蘭の祈りが届いたのか、紫苑の慟哭が響いたのか、史音の叫びに呼応したのか、修一の忿怒に触発されたのか、死んでいった地球の残照が映したのか、世界が一瞬静まり返った後、侑斗は零から授けられた短剣を引き抜いていた。
その瞬間、右腕に装着された青のサイクル・リングから、膨大なエネルギーが一気に注がれる。それが集まったその刃先が、静かに振られた時。
細い一陣の閃光が一気に走り、まるで時間そのものが裂けるかのように、その先にあるすべてを一瞬で切り裂いた。
「な……んだと……!」龍斗が驚愕し、叫んだ。銃を構えていた男達も、その衝撃で吹き飛ばされる。氷の大地に深い裂け目が走り、地面が揺れ、ひび割れた。
龍斗は必死にシニスの力を使い、大地の裂け目を繋ぎ止めようとするが、その手は空しく、崩れていく。
侑斗は再び蒼く輝く短剣を構え、龍斗に向かって歩みを進める。
クリスタル・ソオド、かつてブルの世界の戦士ユウ・シルヴァーヌが使った、万の可能性を切り裂く剣。
史音はその光景を目に焼き付け、瞳を見開いた。