61、現在 アルファⅣ 呪いの不連続性
アルファは、侑斗の内部で感じた予想以上の拒絶に驚いた。しかし、それでもためらわず、さらに奥へと進む。
そこには――。
さらに深い絶望と、苦しみと、悲しみがあった。
快楽への拒否反応。
幸福の拒絶。
それらが、凍てつく深淵のように広がっていた。
けれどその根幹を創ったものに触れたアルファは.....笑ってしまった。
「これが呪い?瑠衣、貴女は私を馬鹿にしているの........ククク、アハハハハ」
◇
海辺の夜風が吹き抜ける。
一人佇む優香は、静かに波の向こうを見つめていた。
「アルファ……ごめんね」
彼女はそっと呟く。
「私が彼にかけた呪いは、彼の底にあるものの一部を利用しただけなんだよ。深層に入ってしまったら、貴女は――弾かれる」
夜の海は、果てしなく暗かった。
◇
「葵瑠衣が……貴方にかけた呪いは……」
侑斗は荒い息をつきながら、絞り出すように呟いた。顔色は青白く、額には汗が滲んでいる。
「葵瑠衣なんて知らない」
低く抑えられた声。しかし、その裏には確かな困惑が滲んでいた。
アルファは苦笑し、唇を歪める。
「フ……そうか。お仲間は、それすら教えていなかったんですね」
かすれた声には、嘲りと諦念が混ざっていた。苦しげに肩を上下させながら、侑斗は修一と史音の方を見やる。
「貴方の知る椿優香が葵瑠衣その人ですよ」
二人とも、気まずそうに目を逸らした。
「……あの人が、俺に何をしたって?」
絞り出すような問い。侑斗の瞳には、冷えた光が宿っていた。
「何をって?」
侑斗の前に立つ人物は、ゆっくりと肩をすくめ、楽しげに微笑んだ。
「貴方が知る全てですよ」
静かに、しかし確信を持った口調だった。
「だって……これほど傷ついているのに、未だに貴方は椿優香を忘れられない。貴方には愛欲がないんじゃない、ただ――椿優香にしか女への愛情を抱けなくなっている」
冷たい言葉が、空気を凍りつかせる。
「それが彼女のかけた呪い。女なら誰でもやること……」
「黙れ!」
怒声が響く。
侑斗の手が拳を握りしめ、わずかに震えていた。
「それ以上喋ると殺す……!」
鋭い視線が相手を射抜く。だが、それでも彼女は、面白がるように言葉を続けた。
「まあ、怖い」
涼しげな口調とは裏腹に、侑斗の怒りを試すような挑発の色が滲んでいる。
「でも、貴方もただでは済まさなかったんですね」
ゆっくりと歩み寄り、侑斗の顔を覗き込む。
「貴方は――葵瑠衣を椿優香に変えた」
侑斗の表情が困惑する。
「……安心しなさい」
その囁きは、どこか慈愛に満ちていた。
「貴方の呪いは、私が解く」
静寂が広がる。
暗闇の中で、ただ息遣いだけが響いていた。
優香の呪いをここまで深く刻んでいるものは、彼女が引き摺り出した奥にある。彼が生まれもっている何かだ。
アルファは深い暗闇の中を進んでいた。絶望の壁が四方から押し寄せ、さらに深く、さらに奥へと彼を誘い込む。空間は静寂に沈み、わずかに漂う瘴気が肌を刺すようだった。
やがて、闇の底に沈んだ蒼い塊が視界に入る。それは闇の淀みの中に埋もれ、わずかに鈍い光を放っていた。冷たい波動がアルファの肌を撫で、胸の奥に重苦しい痛みを残す。それが何なのか、彼は知っている。後悔と苦しみの塊——触れれば、侑斗の精神は崩壊するかもしれない。それでもアルファは、ゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間——
「うわああああああ!」
耳をつんざくような悲鳴が、暗闇を切り裂いた。
侑斗の叫びだった。彼の声は鋭く、苦痛に満ちていた。
「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ! その塊に触れるなあ!」
慟哭が史音の心に突き刺さる。まるで、内臓を素手で掴まれたかのように息が詰まる。
「侑斗……やめろ、アルファ!」
史音の声も震えていた。
「それ以上、侑斗を苦しめるな!」
その叫びと同時に、侑斗の右腕の青のサイクル・リングが強烈な光を放つ。暗闇が一瞬、蒼白く染まる。
そして——
けっして侵入できないはずのアルファの最深部、その膜層を超えて、蒼く輝く短剣の鞘が現れた。
空間が歪み、静寂が破れる。
侑斗のサイクル・リングに呼応するように、蒼い短剣の鞘は脈打つように輝きを増していく。その光は、閉ざされた世界を引き裂くかのようだった。そして、次の瞬間——
アルファの前に、怒りに満ちた美しい瞳が浮かび上がる。
それは、彼女が何百年もの間、一度も見たことのないほどの激しい光を宿していた。
◇
零は、アクア・クラインの最後の力を解放し、その輝きを西の空へと向けた。
黄金のオーラが彼女の身体を包み込み、全ての怨念がその方向へと流れていく。
彼女の声は低く、しかし空間を揺るがすほどの怒気を孕んでいた。
アルファと侑斗の間に現れた短剣と、黄金に燃える瞳——
その憎悪に満ちた視線が、鋭くアルファを睨みつける。
次の瞬間——
『貴様ごときが、私の一番大事なもの……ユウのかけらに触れるなど、絶対に許さない』
零の怒りが声となり、空間全体を震わせた。
ユウがレイを愛したがゆえに残した、彼の懺悔の塊——
それは、ユウのレイに対する愛の証だった。
短剣が発する光に共鳴するように、侑斗のサイクル・リングが一層激しく輝く。
青白い光が迸り、闇を切り裂いていく——
◇
「なるほどな、優香……力を使うタイミングか」
ベルティーナは静かに呟きながら、鋭い瞳でアルファを見据えた。
「アルファよ、お前は彼女の逆鱗に触れたのだな。……これで私の《真空の瞳》は、お前を捉えられる」
ベルティーナは赤のサイクル・リングを翳し、淡々と言葉を続ける。
「レイ・バストーレ、よくやったな」
赤の輝きがリングから放たれ、それはかつて一つだったものの元へと向かっていく。
アルファの最外膜を貫き、赤い光が内部へと侵入する。
やがてその光は、侑斗の青のサイクル・リングへと到達し——
瞬間、サイクル・リングが本来の銀色へと変わる。
そこから放たれるエネルギーは、圧倒的な力を持ってアルファの膜を打ち破った。
張り巡らされた防御が次々と砕け、アルファは焦燥の色を浮かべる。
——だが、彼女もただ屈する存在ではない。
「うああああああ!」
狂乱したように泣き叫び、床を転げ回る侑斗。
史音は驚き、すぐに彼のもとへ駆け寄った。
「侑斗! 落ち着け……大丈夫だ、アタシや修一がいる。お前の苦しみは解けないかもしれない……けど、そばにいることくらいはできる!」
彼を抱きしめながら、史音は初めて、自分の中に母性というものがあることを自覚した。
数万キロの距離を超え、対峙する二つの力——
アルファの《灯篭の膜》と、ベルティーナの《真空の瞳》。
「アルファ……お前の空気の膜ごとき、私の《差時間の膜》の前では無力だよ」
ベルティーナの声は冷たく響く。
「すでに——脈楼の谷全てが、私の《カーディナル・アイズ》の支配下にある。たとえ何億枚の膜を張ろうとも、全て剥ぎ取ってみせよう」
その言葉とともに、アルファの膜が一枚ずつ削がれていく。
はじめはゆっくりと……しかし、次第に加速していく。
やがて——
アルファの膜は、《カーディナル・アイズ》によって完全に剥ぎ取られた。
「アルファ……お前を外側から押しつぶすこともできたのだ」
ベルティーナは淡々と言い放ち、視線を落とす。
「……だが、お前はそこまで愚かな女ではない」
そう言って、彼女は静かに《真空の瞳》を解除した。
◇
すべてが消え去った後——
脈楼の谷の端に、侑斗と史音、修一、そしてアルファの姿があった。
「アルファ……やはり、今までの世界はお前の《灯篭の玉》の中の世界だったのか?」
史音の問いに、アルファは何も言わず、ただ黙って頷く。
彼女は侑斗の頬を伝う涙を見つめ、悲しげに詫びた。
「……ごめんなさい。私には、あなたの呪いを解くことができませんでした」
侑斗は顔を腕で拭いながら、静かに言った。
「これは……誰にも解けない。この、自分でも分からない苦しみは……俺の存在理由そのものなんだ」
表面上の彼女の呪いなどどうでも良い。
性欲、それこそ、歪んだ神が男性に与えた呪いでしかない。侑斗はそう思っていた。
アルファは何も言わず、ただ先頭に立ち、3人を招いた。
300メートルほど上った先——
彼らはついに、谷の反対側へと辿り着いた。
そこには、数十人の者たちが倒れていた。
「こいつらは……?」
修一が警戒しながら、アルファに尋ねる。
「『地球を守る教団』とやらの工作員です」
アルファは淡々と答えた。
「あなたたちがこちら側に辿り着いたら、攻撃するつもりだったのでしょう。でも——女王の手を煩わせるまでもない。私が先ほど、打倒しました」
「アルファ……あんたは、アタシたちの敵だったのか?」
史音の問いに、アルファは微かに微笑みながら、興味なさげに肩をすくめた。
「さあ……どうでしょうか?」
彼女はゆっくりと目を閉じ、一息つく。
「——でも、私は賭けに負けた。だから瑠衣との約束を守ります。あなたたちを、無事に谷の向こう側へと送り届ける」
しばらくの沈黙の後——
アルファは再び、空気の膜を纏うと、静かにその場から消えていった。