4.現在 また、何かが始まる夜
澄んだ夜空の下、木之実亜希は高原の駐車場に立っていた。
仲間たち――松原洋、葛原零、牟礼彰、小鳥谷琳、そして橘侑斗も、星空観測のために集まっている。
ひんやりとした夜の空気の中、静寂を破る声が響いた。
「誰か! クランプを締めてくれ!」
侑斗のいつもの叫び声だ。
亜希は溜息をつきながら夜空を仰ぐ。こんな夜は、ただ静かに星を眺めていたいのに。
「はいはい、分かったよ、侑斗」
舌打ちしそうになるのを抑えつつ、零のほうへ目をやる。
彼女はゆっくりと歩み寄り、侑斗の赤道儀を調整し始めた。その動作はどこまでも優雅で、亜希は少し複雑な気持ちになる。
「おまえさ、いい加減架台変えろよ」
自分の機材をさっさとセットし、望遠鏡を遠隔操作していた彰がぼやく。
「使い慣れた愛機なんですよ」
侑斗は不満そうに返すが、彰は皮肉げに笑った。
「ほう、使い慣れた愛機とやらのクランプの位置が毎回分からなくなるんだな、おまえは?」
「そりゃあ、彰さんの機材みたいに自動導入はできないですけど」
彰の望遠鏡は、観測対象の天体を自動で導入するらしい。侑斗のものとは雲泥の差だ。
「最新機種を買えとは言わん。せめて16倍くらいのスピードで動くやつにしろ」
彰は呆れたように腕を組むと、ちらりと零を見て言った。
「おまえのくだらん自己都合に、美人をいちいち巻き込むな。男全体の価値が下がるだろうが」
侑斗は「ひどいなあ」と苦笑しながらも、どこか慣れた様子だった。
そんなやり取りを横目に、亜希は思う。
(まあ、放っておこう)
「亜希さーん!」
琳の声が弾む。
「松原さんの望遠鏡、春の銀河が見えるって!」
亜希の胸が、ふわりと高鳴る。
銀河の遥か彼方から届く光。宇宙の神秘が、彼女の創作意欲を刺激する。
静かに松原の望遠鏡へと向かうと、彼は言った。
「適当に動かしていいよ。銀河団のあたりなら、何か写るから」
そう言い残し、侑斗たちのほうへ歩いていく。
亜希は望遠鏡を覗きながら、彼らの会話に耳を傾けた。
「どう? 侑斗くんのフローライトは?」
「……よく見える」
零が静かに答える。
「小さくても、蛍石を使ってるからね」
洋が感心したように唸る。
一方で彰は、遠くからぼそりと呟いた。
「そりゃあ鏡筒はまあ、良いだろうけど、古い。俺の宝筒のほうがよく見える」
(いや、あんたの望遠鏡、いつもカメラとかがついてて覗けないでしょ……)
亜希は心の中で突っ込む。
それに零は、侑斗の望遠鏡なら、たとえ明るい星の周囲が真っ青に滲む粗悪レンズでも「よく見える」と言うに違いない――
そう、亜希は確信していた。
みんなで交代しながら春の空を眺めていたときだった。
「うわ、なんだこれ」
彰の突然の声に、一斉に視線が集まる。
「どうしたの?」
「乙女座の銀河を撮ってたんだけど、変なものが写り込んでる」
(観望してるときに、一人で何やってんだよ……)
呆れながらも、亜希はそっと近づく。
琳と零も、気になったのか後に続いた。
「ああ、本当だ。隅のほうに何かある」
侑斗が画面を覗き込む。
「センサーにゴミが付いたんじゃ?」
そう言いつつも、彰はカメラをひっくり返し、小さなライトで照らして確認する。
「ゴミの付着はないね」
松原が画面をじっと見つめる。
「よく見ると、薄緑色に光ってるな……シャッター幕の隙間から何か写り込んだのかも」
亜希の胸に、妙な違和感が広がる。
「何が写ってるの……?」
その数分後、侑斗の様子が変わった。
腕を掴み、虚ろな目で呟く。
「嫌な気分だ……昔みたいに」
侑斗の肩がわずかに震えていた。
「昔……?」
亜希は思い出す。あの時のことを。
(四年前……?)
不意に、零がそっと侑斗の背に手を添えた。
それでも彼は、抱きしめられていることにさえ気づいていない。
亜希の心臓が早鐘を打つ。
――何かが起こる。
夜空を仰ぐと、そこには微かに輝く光があった。
肉眼ではわずかに見えるかどうかというレベル。
しかし、異質な存在感がある。
「また……何かが始まる……」
声にならない声で、亜希は呟いた。
誰もまだ、気づいていない。
けれど、この小さな違和感が、彼女たちの運命を変える先触れとなることを――