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57、現在 アルファⅠ

陽が落ち、あたりはすっかり暗くなっていた。


「あと5キロくらいで着くぞ」


史音は前方に広がる光のカーテンを眺めながら言った。その光は、谷の向こうから淡く立ち上り、夜の帳の中に幻想的な輝きを放っている。


「史音、俺たちは無意識に揺れ動く位相の先へ足を踏み入れているんだ。橘に合わせろって言っても、無理な話だ」


修一がそうフォローする。


史音はこの40kmの徒歩の間、侑斗のためにすでに5回ほど足を止めていた。


「記憶を持たず、揺れ動く現実すら飛べない枝の神子か……おかしな奴だな」


薄明が終わり、天文薄明へと変わる空の下、ようやく侑斗が史音と修一に追いつく。


「今回はまた遅かったな」


史音が眉をひそめながら言った。


「ああ、悪い……20分ほど休んでいた。ここからは走るから、お前たちと同時に動ける」


侑斗は息を切らしながら応える。だが、心の中では思う。だから邪魔になるから残るって言ったんだよ。


「ここからはアタシたちもゆっくり行くから、心配するな。脈楼の谷の入り口……というか降り口か。その場所を確認しながら進むからな」


史音の言葉に、三人は再び歩き出した。


侑斗が一番軽装で、修一もそれほど変わらない。だが、史音だけは自分の胴ほどもある大きなザックを背負っている。きっと怪しい道具がぎっしり詰まっているのだろう。


進むにつれ、谷の底から昇る薄紫の光が次第に強くなってきた。そして――三人はついにその谷の前へと辿り着く。


そこは、切り立った深い谷だった。断崖の隙間から、淡い光が静かに発せられている。そして、驚くべきことに、谷の向こう側が見えた。


「脈楼の谷って言っても、一つの集落だろう?向こう側まで2キロもないんじゃないか?」


侑斗がそう尋ねると、史音が答える。


「この脈楼の谷は横に長く、縦に深い。人口は100人程度だが、住居はすべて谷の壁面に張り付くように作られていて、人々は岩道の途中で生活している。谷の向こうはもう別の国だ。不正に国境を渡ろうとするやつは、この谷を越えるんだよ」


侑斗は改めて谷を見下ろした。谷底までの距離ははるかに深く、その間に点在する家々の窓から、ちらちらと明かりがこぼれている。その光が、薄紫の霧と混じり合い、どこか夢幻的な雰囲気を醸し出していた。


ここを超えれば、もう別の国――。


侑斗は、少しだけ息を呑んだ。


史音は物怖じすることなく、谷の縁に沿ってゆっくりと歩いていく。足元には細かい砂礫が散らばり、踏みしめるたびにわずかに滑る感触があった。


この谷の住民は、渡し賃だけで生計を立てているのだろうか?


谷の奥からは、風に乗ってかすかなざわめきが聞こえてくる。人の声か、それともただの風音かは分からない。


しばらくすると、史音の声が響いた。


「――あったぞ。入り口というか、降り口が」


侑斗と修一は、史音の視線の先を追った。


そこには、幅2メートルほどの石段があった。苔むした岩肌に埋め込まれるように作られており、長い年月を経たせいか、所々が欠け、滑らかな曲線を描いていた。


石段の先を覗き込むと、底が見えないほどの深さがあった。谷の内側は闇に沈んでいるが、ところどころに青紫の照明が街灯のように灯り、ぼんやりとした光を投げかけている。


「一応、電気は通ってるんだ。だから泊まって食事ができる場所もある」


史音がそう言いながら、石段へと足を踏み入れた。


三人は壁面に片手をつけながら、慎重に降りていく。足場は狭く、足を滑らせれば真っ逆さまだ。


「前に来たことがあるのか?」


侑斗が問いただすと、史音は前を向いたまま答えた。


「昔、アオイと一緒に来た。だが、アオイは谷の向こうまで行ったけど、アタシは途中で追い出された。アルファっていう女に」


「アルファ?」


侑斗が聞き返すと、史音はわずかに肩をすくめた。


「この谷の主みたいな女だ。普段は何もしないが、気に入らない奴はさっきの入り口まで追い返す。あの時のアタシは、たぶん邪魔だったんだろうな」


女のいざこざは面倒くさいし、興味もない。侑斗は小さくため息をついた。だが、そのアルファという者に接触しなければ、何事もなく国境を越えられるのかもしれない――。


そんなことを考えていた時だった。


突如、谷底から強烈な風が吹き上げてきた。


「谷風だ! 二人とも、身体を壁面に擦り寄せろ!」


史音の叫びが響く。


風は幾重にも重なりながら渦を巻き、怒涛の勢いで吹き荒れる。巻き上げられた砂埃が視界を覆い、青紫の照明すら霞んで見えなくなった。壁面にしがみついていなければ、風に持っていかれそうなほどの激しさだ。


しばらくして、風が収まり、再び静寂が戻る。


「……おっかねぇな」


史音が息を整えながら、苦悶の表情を浮かべる。


侑斗は、それ以上に情けない顔をしていた。



三人は谷の岸壁に沿って進みながら、壁面に張り付くように並ぶ岩屋を通り過ぎた。岩肌に穿たれたその住居は、どれも灯りがわずかに漏れているだけで、谷底の闇に沈んでいる。


しばらくすると、道は急に広がった。


――幅は20メートルほどもある。


まるで意図的に整備されたかのような空間がそこに広がっていた。そして、その先には、この谷で初めて目にする左右対称の建物がそびえ立っている。


入り口が堂々と道に向けられ、周囲の岩屋とは明らかに一線を画す。宮殿のような荘厳な佇まい――この建物を通らなければ、谷の奥へは進めない。


史音が低く呟く。


「見えてきたな……アルファの城」


――なんだ、結局、問答無用で突破しなければ谷を抜けられないのか。


侑斗は眉をひそめながら、その建物を見上げた。


建物の入り口に近づいた瞬間、谷底からふわりと光が立ち上る。


――半透明の空気の玉。


それはまるで生きているかのように瞬きを繰り返しながら浮かび上がり、柔らかく揺れた。ぼんやりとした光が辺りを照らし、冷たい空気がわずかに震える。


そして、その光の中から、女が現れた。


艶やかな黒髪を持ち、薄い着物を身に纏った女――アルファ。


「アルファ……!」


史音が上ずった声を漏らす。


アルファは三人をじっくりと観察するように目を細めた。


「ふむ……なるほど。貴女は以前、瑠衣(るい)と一緒にここへ来た者ですね」


「……ああ。そしてアンタに追い出された」


史音の声が低くなる。


「――あの時は、ごめんなさい」


アルファはまるで悪びれもせず、微笑を浮かべた。


「どうしても、瑠衣と二人で話がしたかったの」


まるでそれが当然だと言わんばかりの態度だった。


侑斗は横目で修一に囁く。


「瑠衣って誰だ?」


その瞬間、侑斗の右腕の見えないリングが僅かに疼いた。


修一は一つ深呼吸してから答える。


「……葵瑠衣(あおいるい)。史音がよく『アオイ』って呼んでるだろう。自称、最初の枝の神子だ。」


修一は葵瑠衣が侑斗の知る椿優香だと言うことは伏せる。


アルファは、侑斗たちの会話に耳を傾けながら、静かに微笑む。


「なるほど……」


彼女は小さく頷くと、艶やかな声で言った。


「瑠衣の言うことが少しだけ解りました。――私はフィーネという者から、ひとつ依頼を受けています」


その言葉に、史音の表情が一変した。


「フィーネだと!? 先に接触があったんだな。アンタ何を依頼された?」


史音は苛立ちを露わにし、一歩踏み出す。アルファへ噛みつかんばかりの勢いだった。


だが、アルファは動じない。


「私はその依頼を承諾していません。けれど……まあ、あなた達次第では、フィーネの言う通りになるかもしれませんね」


アルファはゆっくりと侑斗の前へと歩み寄ると、その全身を舐めるように見つめた。


「……そうですね。今回はいきなり追い出したりはしません。私の城で、ゆっくりなさってください」


彼女の声が甘く絡みつくように響く。そして、さらに囁くように言った。


「橘侑斗さん。貴方には……いろいろなものが憑いていますね。」


侑斗の背筋が僅かに粟立つ。


「葵瑠衣の賭け……本当に面白いわ」


アルファは妖艶な笑みを浮かべると、手招きし、三人を城の中へと誘った。


********************


ベルティーナの城 女王の間


「――女王!」


ベルティーナの前に、恵蘭が駆け込んできた。息を荒げ、動揺を隠しきれない。


ベルティーナはその様子を見ても、変わらぬ静かな声で問いかけた。


「……どうした?」


恵蘭は姿勢を正し、言葉を整えて報告を始める。


「女王。脈楼の谷に潜伏させておいた者から連絡が入りました」


ベルティーナは恵蘭の目を見つめる。


「史音たちが脈楼の谷に入って、すぐに姿を消したと……アルファの城に入ることなく」


ベルティーナは目を閉じる。


――予感はしていた。


カーディナル・アイズが、三人の存在を捉えられなくなっている。


「……わかった。後は私が手を打つ」


ベルティーナは静かに立ち上がると、右腕の赤のサイクル・リングを東の方角へとかざした。





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