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56、現在 幕間Ⅱ

切り立った断崖が鋭く空に突き刺さるように連なり、その岩壁には幾重にも岩屋が口を開けていた。谷底は深く、闇に沈んでいる。昼間でさえ光が差し込むことは稀で、ただひたすらに静寂と暗黒が支配する空間だった。


優香は崖の上から波頭を四度踏み、音もなくその異様な空間へと降り立った。足元に広がる大地は硬く、ひんやりと冷たい。上空では、光の偏光を帯びた空気の玉——脈楼の谷の人々が「灯篭(とうろう)の玉」と呼ぶそれが、静かに浮かんでいた。


ふいに、その光が重なり合い、繊細な薄衣をまとった妖艶な女の姿が浮かび上がる。


「やあ、ご無沙汰だねえ、アルファ」


優香は片手をポケットに突っ込みながら、親しげに微笑む。


「貴女しか、そんな風変わりな移動方法を選ばないでしょうね。瑠衣……いや、今は優香と呼ぶべきでしょうか?」


アルファは微笑みもせず、静かに優香を見つめた。その視線は深淵のように冷たく、何もかもを見通しているかのようだった。

「アルファ、貴女は私がホンモノの葵瑠衣では無いことを知っている。貴女はそれでも良いの?」

アルファは微笑んで応える。


「私が欲しいのは貴女です。瑠衣、貴女はずいぶん前に私と約束を交わしましたね。貴女は私の力になると」


「そうだね、アルファ。でも条件が揃わなければ、私は貴女の力にはならないよ。今の私を手に入れたところで、大した役には立たないよ」


優香は懐かしげにアルファを見つめた。彼女の世界で過ごした一年の記憶が、鮮明に蘇る。あの閉ざされた時間、研ぎ澄まされた感覚、そして計り知れない力の片鱗——。


「貴女はまだ“完全”ではないのですね」


アルファの瞳が鋭く細められる。優香を精査するように、その身体を隅々まで観察する。だが、彼女の生き生きとした思考様式は、過去と何一つ変わっていなかった。


「それでも私は貴女が欲しい」


次の瞬間、アルファは優香の首元を抱き寄せた。その仕草は穏やかでありながら、どこか支配的なものを孕んでいた。


「もうじき、ここへ枝の神子が三人現れる」


優香はアルファの腕の中で、静かに囁く。


「……フィーネという得体の知れない何かが、その中の一人を捉えるよう、貴女に依頼したそうじゃない?」


アルファは腕を解き、ゆっくりと元の姿勢に戻る。


「そう、橘侑斗(たちばなゆうと)くん。彼はベルやレイの“急所”だから。……ところで、フィーネは代わりに貴女に何を与えると?」


「全てが形を失った後での、私の存在」


アルファは淡々と告げる。その言葉がいかに不確定で、どのような形にも変化しうるものであるか——彼女にはそれがよくわかっていた。


「アルファはフィーネを信じるのかな?」


優香が問いかけると、アルファはわずかに微笑む。


「私は貴女しか信じない」


「そう……なら、交渉を始めようか」


優香は薄く唇を歪め、取引の条件を告げる。


「私はね、アルファ。橘侑斗に“呪い”をかけた。もし貴女がそれを解くことができたら、私は彼と一緒に貴女のものになる。貴女の欲しいものは、それですべて揃う。でも——」


優香はゆっくりと顔を上げ、アルファを真っ直ぐに見据えた。


「それができなかったら、私の呪いが勝ったら……あの三人を谷の向こうに通して欲しい」


アルファは一瞬、静かに思索に沈む。そして、ゆっくりと背後に漂う空気の玉を引き寄せる。


「いいでしょう、瑠衣。貴女の取引、承りました。約束は守ってもらいますよ」


アルファの姿は玉の中に消え、その声だけが、木霊のように空間に残された——。


********

ベルティーナの城、ラウンジにて


遠く東方を見つめながら、ベルティーナは静かに思索に耽っていた。その眼差しの先には、史音たちがいる。


「女王」


恭しく響いた声に、ベルティーナはゆっくりと振り返る。


そこに立っていたのは、枝の神子の一人——恵蘭(けいら)だった。彼女の瞳は伏せられたまま、敬虔な面持ちで女王を見つめる。そして、深く息を吸い込み、瞼を開きながら言葉を紡ぐ。


「女王ベルティーナ。本日をもって、在城龍斗とそれに繋がる者、脱離者たちの選定が完了しました。一度女王を裏切った者も、仰せの通り、再び我らの中へ戻ることを許しました。……かつての半数ではありますが、我らの組織も、機能を取り戻しつつあります」


「大儀であったな。……嫌な役目を負わせてしまった」


ベルティーナは小さく息を吐きながら、恵蘭を労う。


「いえ、史音の前ではこのようなことは不可能でしたから、やむを得ません。それに……史音の言う通り、あの者たちを信じるのは、私にとっても決して愉快ではありません」


史音は恵蘭すら信じなかったのだ——。


「女王の度量は、時に私自身をも不愉快にする」


ベルティーナは再び遠くを見つめる。その瞳には確信が宿っていた。


「だが己の意志で翻意を決めた者を、私は認めないわけにはいかぬ。それは、従前よりも強固な力になると、私は信じているのだ」


忠義の源は、人の中にある。己の正しさすら翻す、強い願いのもとに——。


「女王、このやり方を、史音は決して好まないでしょうが……敵の中に、そのまま数名のスパイを配置しました」


「わかった。それでいい。情報は何よりも貴重だ」


「それから……」


恵蘭はわずかに躊躇し、言葉を選ぶように口を開く。


「アオイ....椿優香を通じて、女王に伝言がありました」


「優香の所在がわかったのか?」


ベルティーナの声が微かに震えた。


「昨日、脈楼の谷へ向かったようです。……おそらく、アルファと何らかの交渉をしたのでしょう」


「優香は何と?」


「……“力の使い所を間違えるな”と」


ベルティーナは深く頷いた。


優香はすべてを見通している——。

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