53、現在 紙の匂いと、空の裂け目
亜希はそれほど著名な人間ではないが、ごく稀に、自分の作品の読者に出くわすことがある。特に大型書店では、運が悪いと騒がれてしまい、店員さんに迷惑をかけることがあった。そういうこともあって、なるべく小さな本屋に行くようにしている。
零みたいに変装することも考えなくはなかったが、どうにも自意識過剰な気がして気が進まない。まあ、零ほど美しい人なら、変装しても嫌味にはならないのかもしれないが。
亜希が今の職業を選んだとき、何を基準に決めたのか、はっきりとは思い出せない。ただ、新書が並ぶ書店の匂いが好きだったのだろうとは思う。電子書籍も全く読まないわけではないが、やはり紙の本が手元にあって、それをめくる感覚とともに物語の世界へ没入する感覚には敵わない。いつか世界から紙の本が消えたとしても、そのとき生まれる子供たちは、ゼロとイチの世界と寄り添いながら、また新しい形で物語を楽しむのだろう。
門前街道にある小さな本屋の雑誌コーナーでは、しばらく途絶えていたオカルト特集がまた増えていた。どの雑誌も、あの忌々しい「無色の白線」について言及している。空を裂くように伸びる白い線――その正体は未だに不明で、どんな観測機器をもってしても、正確な情報を捉えることができていない。
当然のように、在城龍斗についての憶測も飛び交っている。テレビでは専門家を名乗る人々が適当な解釈を垂れ流し、WEB上ではもっと無責任な言説が溢れかえっている。在城龍斗が映ったというオカルトじみた動画は、いまや世界規模で話題になり、零さんが言っていた通り、「地球を守る教団」とやらの信者が日々増えている。もっとも、彼らの多くは「自称信者」のようだが。
亜希は小さく息をつき、店の外へ出た。すると、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。
「本当に無いんだなあ。オークションでも見つからないし、田舎の中古店ならあるかと思ったんだけど」
「松原さん、だから俺のレンズ貸すよ。俺、今は星景とか全く撮る気無いし、15mmから35mmまで全部貸すって」
「なんかさ、他人のレンズで撮った写真って、満足感が得られないんだよ、僕は」
洋と彰の声だ。
「おーい!」
亜希が声をかけると、話し込んでいた二人がこちらを振り向いた。
「あ、亜希さんだ」彰くんが言う。
「亜希さんだね」松原さんも同じように言う。
二人はこの通り沿いにある老舗の中古カメラ店から出てきたところだった。
「どうしたの? 亜希さん。まさか自分の本の売れ行き調査?」
背後の書店をちらりと見ながら、彰くんが失礼なことを言う。
「そんな心配はしたことないよ」
亜希がそう言うと、洋が怪訝そうな顔をした。
「ええ、亜希さんってそんなに自信家だったっけ?」
勘違いされてしまったようだ。ちゃんと説明しよう。
「私は職業作家として通ってるけど、WEBデザイナーやイラストレーターの仕事もしてるし、いざとなれば何でもやるよ。だから、もし明日作家をやめたとしても、とりあえず食べていけるってこと」
洋と彰が顔を見合わせる。
「いいなあ……零さんもそうだけど、神から二物も三物も与えられてる人はさ」
彰がぼそりと呟く。
「そりゃあ、いろいろできるのは便利だけど、面倒臭いよ。何を選ぶか、その都度決めなきゃいけないから。松原さんや彰くんだって、私より優れてることはいっぱいあるじゃない」
そう言うと、洋が小さく笑って肩をすくめた。
「亜希さんの言う通りかもね。僕たちは自分の現状に不満があるわけじゃないし、ささやかな幸せを満喫して生きるのも、安定していて一番いいのかもしれない」
「まあ、そうだな。いろいろ持っていることが、必ずしも幸せとは限らないし」
彰がつぶやいた言葉に、亜希は軽く肩を竦めた。正論だ。でも、こういう話をしているとなんとなく気分が沈んでくる。
「それで、二人ともカメラ店から出てきたってことは、収穫なし?」
亜希が話題を変えると、二人は振り返って、カメラ店の方を見た。
「まあね」彰くんが肩を落とす。「松原さんが、空のあれを撮りたいって言って広角レンズを探してたんだけど、結局見つからなくて」
亜希はふと、空を仰ぎ見た。青空を裂くように伸びる白い線が、遠くへと消えていく。
修一の話が本当なら、あの白線は、滅びた世界の人たちが流した涙の跡かもしれない。
しかも、世界中の人々が毎日あの白線を撮影している。テレビでも、WEB上でも、そのうねるような姿が報道され、何度も映し出されている。
亜希は、空に滲む白線を静かに見つめた。
「それでさ、俺、広角レンズはそこそこ持ってるから貸すって話をしてたんだよ」
彰がそう言いながら、カメラバッグの肩紐を引き上げた。
「彰くんは撮らないの?」と私が尋ねる。
「あの薄気味悪い奴がやってる、薄気味悪いことには興味ないよ」
そう言って、彰は口を固く結んだ。その横顔には明らかな嫌悪が滲んでいる。
「僕も在城龍斗には全く興味はないけど……ただ、自分の目であの空の現象を観測して、自分なりに調べてみたいんだよ」
洋はそう言って、どこか遠くを見つめる。彼らしい、真面目な考え方だ。そういえば——
「二人とも、侑斗や修一くんから何か連絡もらってない?」
亜希がそう問いかけると、ふたりは顔を見合わせた。あの二人が姿を消してもう一週間になる。
「ああ、修一から『侑斗を連れて世界を整えに行く』っていう、やたら格好つけた連絡はあったよ」
彰は肩をすくめる。
「僕も侑斗くんから同じような連絡があったけど、それ以降は音沙汰なしだね」
そう言って松原さんは空を仰ぐ。今日は薄曇りで、あの白線はぼんやりと霞んで見えにくい。
「侑斗たちは、やっぱりあれをどうにかしようとしてるんだろうな……」
亜希は曖昧に呟く。
「『地球を守る教団』と戦ってるのかな……くそっ、修一、だったら侑斗じゃなくて俺を誘えよ! 俺もあの『地球を守るためなら何でもする教団』、ぶっ飛ばしたいっての!」
彰くんが苛立ったように拳を握る。
——そのとき。
「お前たち、今『教団』の批判をしたな!」
突然、怒声が響いた。私たち三人が声のする方に振り向くと、そこには少し薄汚れた服を着た中年の男が立っていた。腕には『地球・愛』と書かれた、何とも言えない恥ずかしいい腕章。赤黒くこわばった顔には、怒りが満ちている。
一目見て、これは自称信者の類いだと察した。
「いや、批判はしてないぞ。ただ否定しただけだ」
彰が、わざと挑発するように言葉を投げる。火に油を注ぐとはこのことだ。
「お前は『教団』に何かされたのか!? 教祖を侮辱する根拠は何だ!」
男の怒鳴り声に、通りを歩いていた人々の視線がこちらに集まる。そのざわめきの中から、同じ腕章をつけた男や女が数人、こちらに向かって歩み寄ってきた。
……うわ、面倒くさい。
「どうしました?」
新たに現れたのは、30代くらいの女だ。落ち着いた口調だが、その腕にはしっかりと『地球・愛』の腕章が巻かれている。男が女に何か耳打ちすると、女は無表情のまま静かに頷いた。
「公共の場で、なぜ私たちの教団や教祖を侮辱するのですか?」
その目が陶酔に染まっていて、背筋が寒くなる。
さらに、別の男——20代くらいの青年も前に出て声を張り上げた。
「お前たちは『教団』に何かされたのか!? 教祖を侮辱する根拠は何だ! お前たちは地球の敵か!?」
——さっきも聞いたな、そのセリフ。
「ええと……この街って、自由に会話する権利も保証されなくなったのかな?」
洋が冷静に問いかける。
「反徒どもには何の権利もない!」
おじさん、何か意味不明なことを言ってるよ。
「教団に何かされたかって? 逆にお前らは何かしてもらったのかよ」
彰くんは冷笑し、腕を組む。「それから教祖様を侮辱なんかしてないぞ。そもそも、侮辱するほど関心がないんでね」
彼の侮蔑の視線を受けて、腕章集団の後続部隊がじわじわと増えてきている。
——これは、まずい。
「松原さん、彰くん、さっさと逃げよう。真面目に相手しちゃダメだって」
私は彰くんの袖を引っ張る。
「……せっかくストレス発散できると思ったのにな」
彰くんがため息混じりに呟く。
「彰くん、亜希さんの言う通りだよ。僕らはこんな連中と関わっちゃいけない」
松原さんも冷静な判断を下してくれた。
亜希は静かに目を閉じ、発現した能力で最適な逃走経路を探る。
「——こっち!」
二人の腕を引き、私は狭い路地へと駆け込んだ。背後では「待て!」と怒声が飛び交っている。
でも、大丈夫。私たちは、あの連中に捕まるようなヘマはしない。
私たちは全速力で駆け抜け、やがて人混みへと紛れ込んだ——。