52、過去 自明な因子
午前0時、史音は自身に仕掛けた位相タイマーの微かな振動で目を覚ました。
薄暗い室内に、規則正しい静かな呼吸音が響いている。
隣を見ると、ベルティーナが穏やかな寝顔を浮かべ、シーツの上に華奢な指を投げ出していた。
彼女を起こさないように、慎重にベッドを抜け出す。床板が軋まないよう、つま先に力を込めた。
史音は部屋の隅にある小さな倉庫へ向かう。これは彼女しか知らない秘密の収納スペースだ。
蓋をそっと持ち上げ、中からいくつかの道具を取り出し、上着とズボンのポケットに滑り込ませる。
部屋を出る前に、もう一度ベルティーナに目を向けた。
「お姫さん、あんたは馬鹿だけど……久しぶりに楽しかったよ」
小さく呟く。彼女は寝返りを打つだけで、目を覚ます気配はない。
「私と真正面から話してくれたのは、アオイ以外じゃ初めてだった。だからこそ、これ以上関わらないほうがいい」
史音は微笑を浮かべたが、それはすぐに消えた。
「……もう会うこともないだろう」
そっとドアを閉めると、決意を胸に施設の廊下を進む。行き先はカイラル量子加速器の管制室――奴らが待つ場所だ。
夜の静寂を打ち砕くように、加速器の稼働音が低く唸りをあげている。
史音は足音を殺しながら、長い廊下を進んだ。
管制室のドアは、予想通り厳重に施錠されていた。
史音は上着のポケットから小さな機器を取り出す。波動位相装置――これを使えば、自分の身体を実態のないものへと変質させることができる。
「実験する暇がなかったからな……」
不安を噛み殺しながらスイッチを押す。
一瞬、全身が強烈な揺らぎに包まれた。まるで自分が霧に溶けていくような感覚――史音は意識を手放しそうになる。
唇を強く噛みしめ、なんとか耐えた。
次の瞬間、彼女の姿は管制室内、死角に仕掛けておいた受信機の前に現れていた。
室内は白色灯が最大光度で照らされ、目が痛くなるほど明るい。
部屋の中央には、統括責任者の Dr.オーパス が両手を挙げ、細い声をあげていた。
その額に拳銃を突きつけているのは、 Dr.レーン を名乗る女と、昨日史音の実験室にいた数人の男たちだった。
「君たちが何を言っているのか分からん! 科学者がなぜ銃火器を持ち込むんだ? 目的は何だ?」
Dr.オーパスの声は震えていた。それに対し、Dr.レーンは冷たく微笑む。
「目的? ええ、私たちはここで”収穫”を得たのです。当初のミッションは完了しました。だから消えるつもりだったのですが……」
彼女は銃口をさらに押しつける。
「“あの小さい東洋の子供”――フミネの実験を目撃してしまいましてね」
史音は背筋が凍るのを感じた。
レーンの声には、人間らしい温度が一切なかった。
「私たちは彼女の実験レポートを拝見しました。原理は理解できる。しかし、現在の技術では不可能な内容が多く、数学的定式化も未完成。つまり、実験は実施不能なはずです」
レーンはDr.オーパスの額に銃先を押し付ける。
「にもかかわらず、彼女は目の前で”成功”させた。しかも、たった一人で」
「……だから何が言いたい?」
「私たちは、彼女が何らかの”トリック”を使ったと考えています。そして、そのトリックの鍵となるデータは この管制室 にある」
レーンの唇が歪む。
「おそらく、この施設最大の カイラル粒子加速器 を使ったのでしょう? そのデータを引き出せば、私たちはフミネの”インチキ実験”の真相を掴める」
Dr.オーパスの顔が青ざめる。
「君たちの正体は……? 君たちは国際技術機構から派遣された科学者じゃなかったのか?」
Dr.レーンは吹き出すように笑った。
「まだシラを切るんですね? 無駄ですよ。セキュリティスタッフはすでに 私たちの潜入者 と入れ替わっていますから」
Dr.オーパスが絶望の表情を浮かべる。その瞬間――
「そいつらは科学者じゃない。だから説得するだけ無駄だよ」
静寂を破るように、史音が声を上げた。
光の陰から、彼女が姿を現す。
Dr.レーンと一味が一斉に顔を向ける。
「……どこから入った?」
彼女の疑問に答える暇もなく、史音は一瞬で距離を詰めた。
波頭を蹴り、Dr.オーパスの前に割り込み、銃口を叩き落とす。
「フミネ……!」
Dr.オーパスが驚きの声を上げる。
「こいつらは スピンオフ・トラッカー だ」
レーンの表情が一変する。
「……スピンオフ・トラッカー、だと?」
それは、科学知識を悪用する犯罪組織。
研究施設に潜入し、実験成果や危険な技術を盗み出し、それを必要とする国家や企業に売り渡す連中。
「分かっていたのに、貴女は上司に報告していなかったのですね?」
レーンの声が低く沈む。
史音は拳を握りしめた。
「私は”報告”なんかしない。自分で潰すつもりだったからな」
鋭い眼光が、レーンを貫いた。
「でもな。この施設で得た知識や技術情報を持ってトンずらされると困るからな。決定的な現場をDr・オーパスに見せる必要があったんだよ」
史音は冷ややかに言い放った。
その瞬間、背後にいた男が勢いよく飛びかかる。だが、史音は即座に波頭を飛び、軽やかにその場を離れた。
「外部のセキュリティチームが到着するよう手配済みだ。大人しくしてるんだな」
史音が言い終わるのと同時に、別の女が彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。史音は再び波頭を飛ぼうとするが――
「今の位置から4メートル背後に飛ぶつもりだ。移動して捕まえろ!」
鋭い指示が飛ぶ。直後、史音が飛んだ先には待ち構えていた男の姿があった。屈強な腕が史音の体をがっちりと捕らえる。
「そうか……協力者に枝の神子がいたのか。本当にどうしようもないな」
Dr・レーンは史音の顔を覗き込み、薄く笑った。
「あなた、どうやって昨日の実験を行ったの? どんな手品で?」
史音は軽く肩をすくめる。
「トリックなんか使ってないよ。私だけが知っている知識で、あんたたちの目の前で実験を成功させたんだ。私には嘘をつくという行為の意味が理解できないんだよ」
Dr・レーンは冷めた目で史音を見つめた。
「なるほど……それなら、あなたをこのまま連れて行きましょう。いろいろ、ご教授願いたいですからね」
「はは……それじゃあ私はこれを使うかな」
史音は男の腕の中でもがきながら、ズボンのポケットから円錐形の装置を取り出す。その先端がかすかに青く光る。
「これは、あんたたちがここで入手したテクノロジーの保管場所に仕掛けた腐食装置の起動スイッチだ」
史音は指で装置を弄びながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
――アオイ、外部のセキュリティはまだか?
時間稼ぎさえできればいい。史音は装置を高く掲げたまま、静まり返る室内を見渡した。
だが、その沈黙は長くは続かなかった。
バタンッ!
ドアが勢いよく開き、大勢のセキュリティスタッフがなだれ込んできた。史音は安堵の息をつきかけた。
だが――
「ミス・フォルタレーン、外から来た外部のセキュリティを全て排除しました」
静かに告げられたその言葉に、史音の背筋が凍る。
――なんてことだ。アオイ、上手くいかなかったのか……?
焦燥が胸を駆け巡る。史音は全身に力を込め、男の腕から完全に抜け出すと、腐食装置を高く掲げた。
「銃を持っている者は今すぐあの小娘をハチの巣にしなさい」
Dr・レーンの冷たい声が響く。
――終わった。
史音は目を閉じ、スイッチを押そうとした。
――だが、その瞬間。
轟く銃声。
目の前に、深紅のカーテンが引かれたように見えた。その衝撃で史音は装置を取り落とす。
だが――
撃たれていない。
「アオイ……この世界では、小さな子供を寄ってたかって殺そうとするのは、賞賛されることなのですか?」
柔らかな声が響く。
ベルティーナだった。
彼女は両腕を広げ、史音の前に立ちはだかっていた。その蒼い瞳が、深い悲しみを湛えている。
「いいえ、ベル。それは、とてもいけないことだよ。そして決して許されることじゃない」
静かに語る葵瑠衣の声。その瞬間、彼女の姿がかき消えた。
――波頭を飛んだ。
次の瞬間、枝の神子の背後から、鋭い手刀が突き込まれる。男が呻き声を上げ、膝をついた。
さらにアオイは、呆然とする敵たちを的確に打ち倒していく。そして史音の腕を掴み、彼女を守るように引き寄せた。
「アオイ……何やってんだよ。遅ぇんだよ、来るのが」
「ごめんね、史音ちゃん。もうベルに頼るしか手段がなくてね」
アオイが微笑む。
その言葉を聞いて、ベルティーナはそっと首を振った。そして、静かにカーディナル・アイズを展開する。
「アオイ、嘘は駄目です。貴女が史音さんを守るよう、最初から私に依頼したんでしょう?」
史音は息を呑んだ。
――眠ってなかったのか、お姫様。ずっと私を見てたのか……。
Dr・レーン――ミス・フォルタレーンは、激昂したように叫ぶ。
「撃てッ!!!」
再び銃撃の嵐が襲いかかる。
だが、それが差時間の幕を破ることはなかった。
ベルティーナの瞳が静かに光を帯びる。
そして、すべての銃弾が、静寂の彼方へと吸い込まれていった――。
「さて、どうしましょうか?」
一味を施設の外へ追いやったベルティーナは静かに呟いた。
朝日がまだ昇りきらない薄暗い空の下、彼女の白い肌はほのかに光を帯びている。冷たい風が髪を揺らし、その金色の輝きが一瞬、陽光を反射する。
「私の国では、犯罪者をその場で極刑にする権利が王族に与えられています。真空の瞳で全員を貫きますか? それとも、私の力で彼らの存在を消し去りましょうか?」
微笑みながら、彼女は辺りに散らばる敵たちを見下ろした。未だ意識を保っている者もいるが、ほとんどは戦意を喪失し、沈黙していた。
「だってベルが言ってるよ、どうする史音ちゃん?」
アオイが肩をすくめ、楽しげな調子で言う。
史音は無言で首を横に振った。
「……ここはあんたの国じゃないだろう。自由を奪って、しかるべき機関に預ければいいさ」
彼女の言葉に、ベルティーナはゆっくりと瞳を細める。
「この者たちの悪意は、今後もずっと保持されますよ? 存在を保護する価値があるのですか?」
その問いに、史音は苦笑しながら肩をすくめた。
「もちろん、そんなものはない。でも……私は、あんたにそんなことをしてほしくないんだ」
その言葉に、ベルティーナはふっと微笑んだ。
***
数時間後――夜明け。
赤みを帯びた陽光が地平線を照らし、長い夜の終わりを告げる。
統括責任者のDr・オーパスは、施設内を忙しく飛び回っていた。警備隊が残された者たちを拘束し、瓦礫の中から貴重なデータを回収しようとしている。
史音は久しぶりに朝日を浴びた。夜の寒気がまだ肌に残るが、陽光が少しずつそれを和らげていく。
史音、ベルティーナ、そしてアオイの三人は、施設の外に立ち、近づいてくる治安警察の車両を眺めていた。
――数多くの者が捕らえられた。
だが、ミス・フォルタレーンと枝の神子の姿は、いつの間にか消えていた。
「さあ、それじゃあ私たちはここを離れましょう」
ベルティーナが朝日に手をかざしながら言った。長く伸びた指の間を陽光が透かし、金色の光が煌めく。
「そうだね、ベル。残ってると、面倒くさそうだしね」
アオイがあくびを噛み殺しながら応じる。
史音は二人を見つめ、少しだけ眉をひそめた。
「もう行くのか? 昨日来たばかりだろう? 見学はいいのか?」
彼女の問いに、ベルティーナは微笑を浮かべた。
「私は、貴女に会いに来ただけですから。目的は果たせました」
史音は一瞬、言葉に詰まる。そして、小さく息を吐いた。
「……そうか。いろいろ世話になったな。私は人間嫌いだけど、あんたは結構気に入ったんだ。ちょっと寂しいな。でもまあ、元気でやれよ」
ベルティーナは瞳を瞬かせた。
「何を言っているのですか? 貴女も私たちと一緒に行くんですよ」
そう言うと、彼女は自明のことのように史音の右腕を取った。
「私は貴女を頼りにしたくて、ここまで来たんです」
「……え?」
戸惑う史音の横で、アオイがくすりと笑う。
「あれ、言ってなかったかな? 史音ちゃんの荷物は私がもうまとめておいたよ」
そう言って、アオイは史音の左腕を掴んだ。
「……な、なんだよ。これじゃあ、アタシはアンタらに拉致されてるみたいじゃないか」
ベルティーナとアオイが顔を見合わせる。そして――
「そうだね、これは拉致だね」
「あれ? 史音さんは、私たちと行きたくないのですか?」
ベルティーナの問いに、史音は息をのむ。
――なんだ、なんか胸が苦しい。
瞳から、何かが零れた。
「……しょうがねぇな。アタシは拉致されちまったんだから……脅されてさ……行くしかねぇじゃねぇか」
朝日が、彼女の涙を光の粒に変えた。
――こうして、史音の旅が始まった。
「おい、侑斗! 起きろ、終点だぞ」
史音は隣に座る青年の頬を軽く叩いた。
「……あと10分……」
「バカ野郎! 学校に行くんじゃないんだぞ。バスを降りて歩いて、脈楼の谷へ向かうぞ!」
揺れる古びたバスの座席に沈み込んだまま、侑斗は大きく伸びをする。その姿を見て、史音は呆れたようにため息をついた。
「こんなおんぼろバスで寝られる神経がすげぇな。本当に世の中には、いろんな面白い奴がいるもんだ」
侑斗は眠そうな目をこすりながら、ぼんやりと窓の外を見る。
「足手まといになると悪いから、俺、ここで寝てちゃダメかな?」
「ダメに決まってるだろう! アンタが必要だから連れてきたんだ!」
史音は言い放つ。
侑斗は眠気を堪えながら、ふっと笑った。
――自明な因子を、それぞれが持っている。