51、過去 黄昏の対話
夜の帳が下り、時計の針が20時を指す。
深夜に起こる事態に備え、史音は自室へと戻った。
だが、異変に気づく。
閉めたはずの電子キーが解除され、わずかに開いたドアの隙間から明かりが漏れている。
――連中、私の個人記録でも覗こうとしているのか? いくら何でも徒労が過ぎるぞ。
警戒しつつ室内を覗き込む。
だが、そこにいたのは予想外の人物だった。
ベッドに腰掛け、静かにこちらを見つめるベルティーナ。
「……で、なんであんたが私の部屋にいるんだ?」
史音は苛立ちを隠さず声を荒げる。
ベルティーナは申し訳なさそうに視線を落とし、控えめに答えた。
「夕食を取っていたら、管理部の方に言われました。現在、空いている女子用の部屋は無いと」
――ああ、今余計な連中が来ているからな。なるほど……
納得しつつも、他に方法はあったはずだ。
「だったらアオイの部屋に泊まればいいだろ!」
憤った声をぶつけると、ベルティーナはわずかに頬を赤らめ、小さな声で答えた。
「それが、その……アオイと同じ部屋で眠ると……いろいろと、大変なことになるので……」
――全く、ホントに見境いないな、あの女。
史音は小さく舌打ちした。
自分も同じ目に遭ったことがある。追い出したくても、その気持ちは痛いほど分かるだけに、強く言えない。
だが、これ以上このお姫様と話している暇はない。深夜には行動を起こさなければならないのだ。
「悪いけど、私はここのところ徹夜続きで眠いんだ。あんたが何をしていようと構わないけど、私はもう寝るよ」
そう言い放ち、史音は着替えを始めた。
いつもならパジャマに着替えるところだが、今夜はそうはいかない。
朝、きちんと整えた寝具を軽く直し、ベルティーナが腰掛けているベッドの反対側へと身体を運ぶ。
「……明かりを消しましょうか?」
美しい声が瞼を閉じた史音の耳に届く。
「どっちでもいい。私は眠い時は環境に左右されず眠れるんだ」
「それでは、私はここで貴女を見ています」
ベルティーナの気配が動く。
次の瞬間、史音は彼女の視線を強く感じた。
――真空の瞳を使っているわけではない。だが、それでも鋭く、まとわりつくような視線だった。
「……あんたの視線が痛い。どこか他を見てくれ」
「眠い時には環境に左右されないのでは?」
――誰がこんな環境を想定するか!
史音は仕方なく瞼を開ける。
「……あんたさ、アオイに頼まれて、枝の神子の統率者になるって言ってたよな?」
「はい、その通りです」
ベルティーナは迷いのない瞳で答える。
史音は短く息を吐いた。
「枝の神子たちは統率されず、それぞれが勝手にこの地球を救おうとしている。でもな、現実は、それぞれが求めている“救われた地球”は違うんだ。同じ枝の神子同士で争い、力を悪用する奴までいる。……地球が本当に救いを求めるなら、人間なんかに託すべきじゃなかった。もし私なら、絶対にそうする」
ベルティーナは思案するように黙り込む。
「……でも、地球の声を聴けたのが、人間だけだったのでは?」
「そんなのは偶然だ。進化の過程でたまたま聞こえただけ。自分が優れているなんて思うのは、人間の一方的な思い込みだよ」
ベルティーナは小さく首を傾げた。
「でも、自分が賢いと考えること自体は、悪いことなのでしょうか?」
史音の口元が歪む。
「賢くもない奴がそう考えるのは、悪いを通り越して害悪だ。……私は、そんな人間が嫌いだ。大嫌いだ」
思わず感情が滲んでしまう。
ベルティーナは静かに頷き、大人びた視線を向けてきた。
「アオイの言う通り、本当に人が嫌いなのですね?」
その声音には、わずかな哀れみすら感じられた。
「私の世界では、人が自分の存在を保つために争うのは当たり前でした。戦って存在力を勝ち取らなければ、自分の存在は消えてしまう。だから私は、人が争うことを悪とは思いません。それを否定することは、自分で自分の存在を否定することだから」
史音は冷たく嗤う。
「……人間なんて、自らの存在を賭けて争う価値すらない存在だよ。そもそも最初から存在しなければよかったんだ」
ベルティーナはふと瞳を伏せた。
「私が好きだった人は、戦うための戦いをする人々を嘆いていました」
かすかに遠い目をする。
「貴女の言う通り、人は本来求めるべきものを見失ってしまったのかもしれません。……暴走する本能に囚われてしまったのかもしれません。だから私は、それを取り戻したい。人が本能を乗り越えて、なお求めるものを」
史音は言葉を失う。
本当にそんなものがあるのだろうか?
もしあると知ってしまったら――期待してしまうじゃないか。
ベルティーナはそっと微笑み、静かに言った。
「史音さん、私はそれを見つけたい。けれど、多分私には足枷が多すぎて難しいのです。だからあなたを頼らせてください。まず、この世界を一緒に何とかしましょう。この黄昏の世界を」
史音は答えず、ただ静かに瞼を閉じた。
――眠ったふりをしながら。