49、過去 異数Ⅰ
長い未舗装の道をようやく抜け、ガタガタと揺れる振動とエンジンの騒音から解放されたバスの中で、史音は窓の外に広がる風景をぼんやりと眺めていた。乾いた大地の向こうに、太陽が低く沈みかけている。朱に染まる空が、どこか懐かしい。
——あれから、もう八年。
彼女の脳裏に蘇るのは、ベルティーナとの出会い。七歳だった自分。頭脳だけは大人びていたが、感情に振り回される幼い子供だった。
「成功だ!」
実験室に響く歓喜の声。
白衣が大きすぎて袖の先が余る史音の隣で、見学を申し出た年長の科学者が興奮気味に叫ぶ。実験装置のモニターには、成功を示す数値が映し出されていた。
「まあ、成功するだろうとは思ってたよ」
史音はつまらなそうに呟いた。心の中では、さっさと皆に帰ってほしいと思っていた。彼女がこの実験に選んだのは、誰も使わない小型の粒子加速器。本当は一人でやりたかったのだ。それなのに、狭い実験室には五人もの量子物理学者が押し寄せ、息苦しいほどに詰めかけている。
「大発見じゃないですか、フミネ!」
背後から興奮した声が飛んだ。振り向くと、二十代後半の女性科学者が目を輝かせている。
「不可能とされていたグルーオンをクオークとは別に生成するなんて……量子物理学の根底を覆す大発見だ!」
「一体どうやって?」
——煩いな。
「超弦理論からの逆算だ。グルーオンがどの余剰次元にどのようなパターンで振動をするか、を数億回量子コンピュータで計算してグルーオンの発生条件を作ってやっただけだ」
史音は溜め息をつく。この技術がどれほどの意義を持つかなんて、最初から分かりきっている。それをいちいち声高に騒がれるのが気に食わない。
「フミネ、直ぐに実用化は無理だが……」
興奮した高齢の科学者が、史音の作った実験装置を覗き込む。煌々と光るディスプレイが、複雑な数式と波形を映し出している。
「この理論が確立されれば、人類はもはや化石燃料に頼る必要はない。核分裂による危険な廃棄物にも悩まされず、核融合のような手間もかけず、余剰次元から無限のエネルギーを生み出せる……!」
目を輝かせる科学者たちを横目に、史音は淡々と言った。
「そうだな。もっと未来、人類がもう少し高尚な精神を持つようになったら、公表してもいいかもな」
彼女の言葉に、室内の科学者たちが一斉にざわめく。
「何を馬鹿な! これほどの成果を直ぐに公表しないというのか!」
「世界中の物理学者が取り組めば、数年で実用化できるかもしれないんだぞ!」
口々に反論する彼らを冷ややかに見つめながら、史音は肩をすくめた。
「ああ、そういうのなら、この部屋のものは勝手に使ってもらって構わないぞ。そもそも状態ベクトルを同一方向にしてグルーオンを引生成する方法は、私が発見したものじゃないしな」
「……何ですと?」
言葉を失う科学者たちを一瞥すると、史音は無造作にモニターを操作し、実験データを消去する。
「何ということを! 貴重なデータを……標準サンプルが無くなってしまった!」
狼狽する声に、史音は冷ややかに笑った。
——初めて会った時、私を『東洋のチビ』と嘲ったくせに。
「私のような子供でもできたんだ。あんたたちでも、五十年くらいかければ同じことができるだろ」
そう言い捨て、実験室を後にする。誰も彼女を追おうとはしなかった。
——地球の枝は、遥か昔にもっと大規模な実験が行われたことを私に教えてくれた。
その後、史音は食堂の片隅で冷めたスープを啜っていた。熱いものは苦手だった。
スプーンを持つ手を止め、ふと考える。この研究所を出るのも、そう遠くはないかもしれない。
——と、その時。
入り口から、先ほどの実験室にいた科学者の一人が、猛烈な勢いで突進してきた。
彼の険しい表情を見た瞬間、史音は咄嗟にスープごと波頭を飛んだ。
科学者は驚愕する。
一瞬前まで目の前にいた少女が、まるで幻のように消え、食堂の正反対のテーブルに座っている。
「……また、か」
史音のこの力は、研究所内では噂になっていた。だが、誰も深入りしようとはしなかった。彼女はいくつもの技術を独占する「謎の小娘」として、都合よく認識されていたのだ。
しかし、その男は諦めることなく再び史音に向かってくる。
史音はもう一度、波頭を飛んだ——が、今度はそこに別の科学者が待ち構えていた。
「っ——!」
背後から伸びてきた腕が、史音の小さな身体をがっちりと拘束する。
「Dr.サイオンジ。貴女もこちらの研究員なのですから、成果は共有していただかないと困ります」
低く囁かれる声。
「全ての成果は、全員のものですから」
史音はジタバタともがく。この状態で波頭を飛べば、この女もろとも吹き飛んでしまう——。
彼女の視線が鋭くなる。
どうする?