48、現在 灼熱の道と幻の水
空が高く、蒼い。
澄み渡った大気の向こうで、太陽がじりじりと焼けつくように輝いている。
侑斗はハイウェイの近くにある広場で、地面に尻をつけたままぼんやりと陽の光を浴びていた。風は乾いていて、皮膚の上を撫でるたびに汗を奪い去っていく。熱された大地の匂いが、かすかに鼻をつく。
幽霊船から降りて、すでに三日が経つ。
「大陸からの移動は、ほぼバスの乗り継ぎになる」
そう聞かされていたが、現実はさらに過酷だった。
夜中の停泊が多く、ベッドで眠ることは一度もなかった。三回バスを乗り継ぐうちに、車両はどんどん小さくなり、座席も狭くなる。さらには、次第にポンコツになっていくのがはっきり分かる。
侑斗はどこでも眠れる体質だが、それでも限界はある。体の痛みはじわじわと蓄積し、まるで筋肉の奥深くに鈍い鉛が沈み込んでいくようだった。
「小さいとな、いろいろ便利なんだよ」
史音は狭い座席でも器用に身を縮め、悠々とくつろいでいた。小さな体はまるで障害を知らないかのように自由に動く。どう言うわけか、胸だけが妙に大きくそれが性欲の無い侑斗は酷くアンバランスに感じた。
やがて、三代目のバスが情けない音を立ててエンジンを停止した。
「……マジかよ」
侑斗はため息をつく。運転手が前方で何やら機械をいじり始めた。修理の間、乗客はバスを降りて待機することになった。
広場に降り立つと、陽光がいっそう肌に突き刺さる。アスファルトの地面からは陽炎が揺らめいていた。
「あちーな……」
史音が腕をかざし、瞼の上に影を作る。見上げた空には、太陽の両端から白く伸びた痕跡が残っていた。
それは、“地球を守る教団”とやらが太陽の鞘を破壊した傷跡だった。
「大陸に上がってから、奴らの攻撃がないな」
侑斗がぽつりと言うと、史音は得意げに胸を張る。
「そりゃあ、ベルのカーディナル・アイズの結界があるからな!アタシ達はその中にいるんだ。ベルの力は凄いんだぞ!」
そう言って、史音は誇らしげに笑う。
「まあ、出発してから何事もなくここまで来れたのも、アタシの計算通りだけどな!」
——計算通り?
侑斗は心の中で鼻を鳴らした。海の上では、あと一歩で全員死ぬところだったじゃないか。
だが、その事を覚えていない史音と修一に言っても仕方がない。
「汗が気持ち悪いなぁ……」
史音は不快そうにシャツの襟元を引っ張る。
「アタシはこう見えて結構綺麗好きなんだよ。ちょっとベルに連絡してみるか」
そう言って、見たことのない形の携帯端末を取り出し、何やら交信を始めた。
「おーい、ベル?どうにかここまで来れたよ。でもさ、アタシ達、もう三日も風呂入ってないんだよなぁ。今、外にいるし、例のシャワー使えない?」
しばらくして、ベルが何らかの承諾を返したようだった。史音は満足そうに通話を終え、振り向く。
「おい、修一、侑斗。ちょっと人から離れるぞ」
侑斗と修一は史音の後に続く。
三人が人だかりから離れると、突然、空から霧のようなものが降り注いだ。
——シャワー?
いや、違う。目には見えないほど細かい霧が、柔らかく身体を包み込む。肌に触れる感覚はまるで、温もりに満ちた手で優しく撫でられているようだった。
その瞬間——侑斗の周りの霧だけが、わずかに濃くなる。
何かが流れ込んでくる。
暖かく、切なく、懐かしいような感情。
霧が晴れると、汗や汚れがすっかり消えていた。それどころか、体の奥にこびりついていた疲労まで薄らいでいるように感じる。
「ベルのカーディナル・アイズで、極小の水分子を使ってアタシ達の身体を拭いてもらったんだ」
史音が説明する。
「侑斗、ベルは四年ぶりにアンタに”触れられて”、少し嬉しかったんだよ」
——四年ぶり、か。
「日本にいる時は、修一の姉さんに睨まれるから、絶対に出来ないけどな!」
忌々しい話だ。そのベルという人間も、澪さんも——もういない誰かに執着しすぎている。
自分以外のものに向けられた想いが、侑斗の中にぽつりと残る。それは、劣等感をじわじわと増幅させる感情だった。しかも、その想いの対象は自分をいつも責めたてている。
——くだらない。
「さて、何事もなくここまで無事に来れたわけだが……」
史音が言葉を切ると、侑斗がじろりと睨む。
「……ああ、侑斗、何か言いたそうだな?」
史音は笑う。
「でもな、お前しか覚えていない事は、現時点では”なかった事”と同義なんだよ」
——なら、俺の記憶も何とかしてくれ。
「さて、敵がアタシ達に攻撃を仕掛けてくる可能性のある場所が四つある」
史音が話を続けようとした時、修一が先に口を開いた。
「最初のは分かるぞ。国境沿いの脈楼の谷だろ?」
「まあ、そりゃあ分かるよな」
史音が頷く。
「そんならいいな。俺は向こうで寝てるぞ」
侑斗がその場を離れようとすると、史音がすかさず引き留めた。
「こら侑斗!自分にも関わることなんだから、ちゃんと関われ!」
侑斗は小さくため息をつく。
——邪魔しちゃ悪いと思ったんだが。
……そこまで言うなら、聞くだけでも聞こうじゃないか。
脈楼の谷——それは、地脈が乱れ、存在力が不安定な地帯だ。フィーネによれば、地質的な要因だけでなく、各国の小競り合いや紛争が絶えず、治安も最悪らしい。
「今まではバスの中にいたから、ベルの力で外からの干渉を防げていた。でも、敵もそれを承知しているから、何も仕掛けてこなかっただけかもしれない。谷に入った途端、物理的な攻撃がくる可能性がある」
史音は淡々と説明しながら、バスの窓の向こうに広がる乾いた大地を見つめる。道の先に、岩肌が鋭く隆起した谷がぼんやりと見えていた。
修一がそこで口を挟んだ。
「史音、橘。俺はこの脈楼の谷が、プルームの岩戸までの道のりで最も危険な場所だと思う」
その言葉には、珍しく迷いがなかった。真剣な眼差し——いつもの陽気な雰囲気とは違う。
侑斗からすれば、修一はほとんど完璧超人に思える。さらに天才肌の史音まで加わっても、なお「危険だ」と言うのだから、ただ事ではない。
史音は少し考え込んだ後、か細い声で呟いた。
「ああ……あの噂だろ?」
「噂?」侑斗が聞き返す。
「あの谷には**不粗視の玉**っていうのがあるらしい。直径1メートルほどの透明な玉で、中にひとつの世界を抱え込んでいるんだってさ。それが谷の中を漂っていて、触れた者はすべてその内部に取り込まれる……」
谷を見つめながら、修一が静かに続ける。
「もし敵がそれを利用してくるとしたら、相当厄介なことになる」
一瞬、沈黙が落ちた。谷の向こうに黒い雲が湧き、陽炎のように揺らめいている。
だが、史音は口の端を釣り上げた。
「面白いじゃないか。敵をぶっ飛ばすついでに、その玉の正体もアタシが見破ってやるよ」
小柄な身体を悠々と伸ばしながら、彼女は続けた。
「それに、不安を解消しといてやろう。脈楼の谷でも、ベルの力を借りる方法がある。修一が言うことも分かるけどな、ベルの力の前じゃ、世界ひとつくらいじゃ足りないんだよ」
風が吹き抜け、乾いた土埃を巻き上げる。脈楼の谷の入口が、じわじわと近づいてきていた。