44、現在 意力
約10分もの間、張り詰めた空気の中で耐え続けていた史音が、抑えていた息を深く吐き出す。
そして、そっと侑斗の手を放した。
——瞬間、光の膜が弾け飛ぶ。
彼らを包んでいた**《生成樹》の空間**が閉じ、三人は船橋の冷たい床に転がり落ちた。
「……限界だ。奴らの波束は、通り過ぎたか?」
史音が息を整えながら、疲れ切った声で呟く。
だが、彼女の問いに対する答えは、すぐに目の前に現れた。
船橋の前方、依然として**真っ黒なシニス**の波束が渦巻いている。
修一と侑斗も身を起こし、倒れていたスクリーンを覗き込んだ。
——異変があった。
一度は通り過ぎたはずの波束の一部が、曲がりながらこちらへ向かってくる。
船橋の大窓越しに、暗闇の中を蠢くそれがはっきりと確認できた。
接触寸前。
そのとき、三人はようやく気づく。
——船が止まっている。
「……っ!」
甲板から響く、かすかな嗚咽。
乗員たちは、黒々としたシニスの波束を目にした途端、恐怖のあまりエンジンを停止させてしまったのだ。
「ちくしょう! 普通に走ってたら、もう追いつかれることはなかったのに!」
史音が悔しげに叫ぶ。
——次の瞬間。
教団の信者たちが操る**《シニスの無の波濤》**が、静かに船首に触れた。
ジュゥゥ……
鈍い音を立てながら、船の先端が、じわりじわりと消えていく。
——侵食が始まったのだ。
シニスの波束は比較的小さい。
だが、その侵食は確実に進行している。
侑斗が振り向いた。
「……どうするんだ?」
史音はじっと消えゆく船首を見つめながら、拳を握りしめる。
彼女は、全てを瞬間的に演算できる能力を持っている。
そして、人間嫌いを標榜しながらも——
奥底では、どうしようもなく人の哀しみを理解してしまう存在だった。
侑斗は確信していた。
——こいつが導く道に、間違いなどあるはずがない。
史音の瞳が鋭く光る。
「……やつらは、せいぜい十数人分の知成力でシニスを操っている。指揮している枝の御子たちはともかく、操ってる奴らの知成力なんか、たかが知れてる」
彼女は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「だったら、簡単なことさ。アタシたち三人の知成力で、この船を存在させる。——絶対、上手くいく」
船を、存在させる。
修一が息を呑み、侑斗は一瞬思案する。
「……じゃあ、船の乗員の知成力も借りればいいんじゃないか?」
「駄目だ」
史音が即答する。
「この船の存在力を薄くするために、最低限の知成力を持った奴しか乗せていない。役には立たないよ」
侑斗は奥歯を噛みしめる。
——お前がやってることも、敵と大して変わらないな。
そんなことを考えながらも、史音の声は迷いなく続いた。
「思い浮かべるんだ。この船の本来あるべき姿を。それを認識し、この場にとどめ続ける。——この船の存在を再生するんだ。」
三人は息を揃えたように目を閉じた。
——消えゆく船の存在を、思い浮かべる。
——かつての形。
——ここにあるべき姿。
彼らは、そう在って欲しいという実在を創り上げた。
船首では、三人の知成力とシニスを操る知成力が拮抗し合う。
「ざけんなよ……!」
史音が歯を食いしばる。
「アタシたちが、アイツらごときの知成力に適わないわけがないだろう。もっと力を高めろ! 奴らの力を——薙ぎ払え!!」
——その瞬間。
侑斗の右腕から、蒼い光が流れ出した。
それは、かつての記憶。
『このくらいなら、私でも再生できるんだけどね』
——彼女には負けられない。
蒼い流れはシニスへと向かい、史音と修一の意思もまた光となってシニスを打ち払う。
——弾かれ、剥がれ落ちる闇。
——そして、船は元の姿を取り戻した。
「……はぁっ!」
史音がその場にへたり込み、右手で汗を拭う。
「上手くいったようだな」
修一が、ゆっくりと姿勢を正しながら呟く。
「まあ、当然だよ」
史音は息を荒げながらも、得意げに笑った。
「知成力勝負で、アタシが負けるわけないだろう。知性の方も、な」
侑斗は、張り詰めていた身体を解きほぐしながら、そんな彼女を横目で見つめた。
それから数時間後、舟は静かに港へと滑り込んだ。
船底が波を切る音とともに、岸に据え付けられた係留柱にロープが巻かれ、やがて完全に停泊する。
周囲には霧が立ち込めていた。海の匂いが湿った空気に混じり、岸壁に並ぶ古びた倉庫の影がぼんやりと揺らいでいる。異国の港町は薄暗く、どこか現実味がない。
それでも、ここでは幽霊船が着岸しても誰も驚かないらしい。埠頭の作業員たちは、ぼんやりとした目つきで船を一瞥するだけで、特に何の反応も示さなかった。
侑斗は荷物をまとめながら、ふと胸の奥に違和感を覚えた。
(……何かがおかしい)
それが何なのかは分からない。ただ、まるで現実がうまく噛み合っていないような感覚がする。
甲板に出ると、すでに史音と修一が待っていた。
「遅いぞ」
史音が苛立ったように言う。
「ああ、悪い。ちょっと……なんとなくな」
曖昧に答えながら、侑斗はもう一度あたりを見回した。
潮風が吹き抜ける甲板。ロープが揺れ、木製の手すりには薄い塩の結晶が張り付いている。見慣れたはずの景色なのに、どうにも落ち着かない。
(……何だ、この違和感は?)
訝しく思いながら、侑斗は無意識に空を仰いだ。
そこには、ぎらつく太陽。
強烈な光に思わず目を細め、視線を下げた瞬間――
船がなかった。
「……え?」
自分の足元には甲板がない。あるはずの手すりも、ロープも、何もかもが消えていた。
彼は、虚空に立っていた。
「うああああー!」
叫び声を上げた瞬間、横から史音の声が飛ぶ。
「どうした。持病の自死狂でも発現したか?」
驚いて声のする方を向くと――
そこには、元通りの甲板が広がっていた。
潮の匂いも、船の軋む音も、何もかもがいつも通りだ。
(……気のせいだったのか?)
奇妙な感覚に戸惑いながら、侑斗は息を整える。
史音は、乗員や船長に向かって何かを告げていた。言葉は聞き取れないが、どうやら礼を述べているようだった。
侑斗の目には、彼らの姿がやけに希薄に映った。
まるで、そこに存在していないかのように――
三人は桟橋へと降り立った。
港は、船に乗る前と変わらず霧に包まれていた。視界の先に霞む倉庫群。どこからともなく聞こえる波の音と、かすかな船の汽笛。
史音を先頭に、三人は港を歩き出す。
だが、ふとした衝動に駆られ、侑斗は足を止めた。
(……何か忘れている気がする)
後ろを振り返る。
そこには、先ほどまで乗っていた幽霊船。
――揺れている。
船体が薄くなり、淡い靄のように輪郭を失っていく。
侑斗が息をのんだ瞬間――
幽霊船は音もなく消えた。
「……おい、何やってんだよ。置いてくぞ、侑斗」
不機嫌そうな声とともに、史音が戻ってきた。
「おい、今……消えなかったか?」
「は?何が?」
「俺たちの乗ってきた幽霊船だよ!」
史音は呆れたように眉をひそめる。
「幽霊船?何馬鹿なこと言ってるんだい」
話が通じない。
今度は修一に向かって叫ぶ。
「おい、修一!幽霊船が消えたんだ!」
「幽霊船?脈絡なく何言ってるんだ?」
侑斗は息を詰まらせる。
「脈絡あるだろう!じゃあどうやってここまで来たんだよ!」
修一と史音は顔を見合わせ、同時に首をかしげた。
「そういえば……どうやって来たんだっけ?」
まるで、記憶そのものが抜け落ちたかのように。
しばらく考え込んだ史音が、やがてしたり顔で言った。
「あー、分かった!状態の波が崩壊したんだな。うん、出来損ないのくせに前世の知成力を持ってるとは偉い偉い」
そう言うと、まるで子供をあやすように侑斗の背を軽く叩いた。
侑斗は呆然と立ち尽くす。
(……そんな馬鹿な)
存在力のないものは、状態の波の崩壊で人の記憶も書き換えて消えるという。