43、現在 無の波濤
「何だと!」
修一が勢いよく史音の頬を引っ張った。
「だから、このまま引くと象の鼻みたいに——痛い痛い痛いっ!」
史音がバタバタともがきながら、懸命に訴える。
侑斗が修一の後頭部を軽く叩いた。
「修一、ちゃんと史音に説明させろ」
ようやく手を放した修一を、史音は恨めしげに睨む。頬をさすりながら、ふくれっ面で言った。
「ホントに痛いなあ、修一。女の子は大切に扱えよ」
「時と場合による」
修一はあっさりと返す。
「いいから、さっさと説明しろ」
侑斗が促した。
「分かった、分かったよ」
史音は舌打ちしつつ、前方の有機パネルスクリーンを操作した。
「どうも今のところ、敵の先読みがアタシより上みたいだ。奴らがこの船を探知しようとして放った《シニスの無の波濤》は、全部陽動だよ」
スクリーン上に、無数の波の軌跡が浮かび上がる。史音は指を滑らせ、それをなぞるように説明を続けた。
「いくつもの《無の波束》で、アタシ達の選択できる航路を意図的に狭めてるんだ」
修一が眉をひそめる。
「確かに《シニスの波束》を避けて航行してるってことは、こっちの位置は大まかにはバレるかもしれない。でも、だからって海は広い。簡単に見つかるものか?」
彼はスクリーンの一角を指し示した。
「ほら、大陸側から放たれたこの細い《シニスの波束》なんか、幅数メートルしかないだろ? こんなの、避けるのは簡単じゃないか?」
「それが、無理なんだよ」
史音は即座に否定した。
修一と侑斗は顔を見合わせ、同時に史音の方を向く。
「……どういうことだ?」
侑斗が訝しげに問いかける。
「この小さい波束は、多分《枝の神子》達が捜索範囲を絞ったうえで、アタシ達三人の存在を正確に捉えるためのものだよ」
史音は指を弾き、小さな波束を強調表示した。
「この小さい波束を放ってるのは、他より多少マシな《知成力》を持った奴ら、だいたい十人くらいかな。巨大な波束より自由が利くし、機動力が高い。やつらはアタシ達を確実に捉えて、その《シニスの波束》でこの舟を消し去るつもりだよ」
——最初の要撃から大ピンチじゃないか?
侑斗は未来を考えて頭を抱えそうになった。もっとも、この状況で“先”なんてものがあればの話だが。
「対策は?」
修一が問う。
「そうだな。前に言ったように、奴らの波束をギリギリまで引き付けて、アタシ達の存在を消す」
そう言えば、そんなことができるって言ってたな。数分だけ。
「アタシが操舵士に頼んで、奴らが一番混乱しやすいタイミングを狙える場所まで行く。そして、そこでアタシ達の存在を隠す」
史音は操舵席へと駆け寄り、進路を示した。操舵士が舵を取り始めると、彼女は振り返り修一と侑斗を呼んだ。
「修一、侑斗! こっちに来い! アタシから1メートル以内に居ろ!」
有機スクリーンに映し出された映像が変わる。
いくつもの《シニスの波束》が、まるで生き物のように蠢いていた。それらを避けながら進む幽霊船。その動きに反応するように、敵の波束も追いかけて方向を変えていく。
「……1km以内に入ったな」
史音が低く呟く。
「船の速度を上げさせよう」
操舵士が頷き、スロットルを押し込んだ。
船橋の窓の外——
遠くの暗闇が、ぞわりとうねる。
その黒さを呑み込むように、怪しく灰色の波が寄せてくる。
「もう限界だな」
史音が息を呑み、硬い表情で言った。
「やるしかない。優香に教わった《地球の枝》の呼び出しを」
——コイツ、今“優香”って言ったか?
侑斗の胸がざわつく。
思い出したくない、嫌な名前を。
だが、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
史音は瞳を閉じ、左手を前へとかざした。
——空間が裂ける。
その先から、光が溢れ出した。
下へ行くほど太く、大きくなっている。
《地球の生成樹》——
幾つもの枝を広げる、その壮麗な樹。
「侑斗、見えるか?」
史音の問いに、侑斗は静かに頷いた。
「アンタが《枝の神子》でなきゃ、そもそも見えないんだよ。さあ、生成樹の空間に入るぞ。この枝に触れていれば、アタシ達の存在は他の《枝の神子》にも見えない」
史音は先へ進み、光の幹にそっと左手を触れた。
瞬間、光が彼女を包み込む。
「修一! アンタも早く枝に触れ!」
修一も躊躇わず枝へ手を伸ばした。
すると彼もまた光に包まれていく。
侑斗も続こうとした、その時——
「待て、侑斗!!」
史音の声が鋭く響いた。
「おまえは直接この枝に触れるな! おまえの“前の人格”に、意識を乗っ取られるかもしれない!」
光の中から、史音の右手が伸びてくる。
「アタシの手を掴め」
小さいが、強い意志を宿した手。
侑斗は、しっかりとそれを掴んだ。
途端に、生成樹のエネルギーが流れ込んでくる。
——史音の本性が伝わる。
その奥底にある、悲しみ——
史音、お前は……こんなものを俺に見せるのか。