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42、現在 静かなる罠

史音の予測は外れ、その日は驚くほど静かだった。

波は穏やかで、風も緩やか。空は深い青をたたえ、陽光が水平線を優しくなぞっていた。


それでも、侑斗は幽霊船内を歩き回ることもなく、デッキに出ることもなく、質素な食事を摂る時に数度、外の様子を気にするだけだった。

あとは個室のベッドに寝転び、本を読んで過ごす。手元にあるのは、持ち込んだ小説のうち、まだ読んでいない亜希の作品だ。

──相変わらず、「あの人は何を言いたいんだろう?」という内容だった。

いくつか瑣末な誤りも見つけたが、誰も指摘していないのだから、自分がする必要もないだろう。あの人は、笑いながら怒るタイプだ。無知の表明をして、開き直る。それが厄介なのだ。


ページをめくる指が止まった時、不意に入口の扉が開いた。史音と修一が入ってくる。


「若いうちからエネルギー効率のいいことばかりしてると、後が大変だよ」


近づいてきた史音が言う。狭い部屋なのだから、そんなに近づかなくても声は聞こえるのに。史音の特徴的な声は、かなり遠くでもよく通るのだ。


「橘は二年くらい前、海上警備のバイトで太平洋上に一ヶ月ほどいたんだが、とんでもない時化に遭って、半分くらい船酔いで寝てたらしいから、勘弁してやってくれ」


修一が史音に伝える。庇ってくれているのか、馬鹿にされているのか、判然としない。


「アタシは雇い主に同情するね」


史音が一刀両断する。以前ならこういう言葉に腹を立てたかもしれないが、今はもう気にならなくなっていた。史音の真っ直ぐさに、少しずつ感化されているのかもしれない。


侑斗はベッドの上で手を伸ばし、置いたはずの栞を探る。ようやく指先に触れたそれを、本の間に挟むと、ゆっくりと上体を起こした。


「外はどうなんだ?」


「至って静かだよ。波の音より、船体の軋む音のほうがうるさいくらいだ。……誰だよ、こんな船にしたのは」


いや、確かお前だったろう。文句は自分の中で消化してくれ。


「史音の最初の予測は外れたが、今日明日中は油断できない。心の準備をしておけよ」


修一が諭すように言いながら、緊張感のない侑斗の横に腰を下ろす。

──心の準備、と言われても、具体的に何をすればいいのか。侑斗は途方に暮れる。


「なあ、史音」


壁に背中を預けて立っていた史音に声をかけると、彼女は気だるげに顔を向けた。


「史音は奴らの“幻捜索”とか、“ストレージ・リングの浮遊放射”とか詳しいけど、それって組織の上層部では皆知ってたことなのか?」


史音は数回瞬きをして、左手の人差し指を口元にあて、考え込むように首を傾げた。


「“幻無碍捜索(げんむげそうさく)”な。最初のアイデアは……確かフィーネだったかな? それを聞いたのはアタシと在城龍斗くらいだったと思う。実際に、どのくらいの知成力でメゾ的状態までシニスを引き下ろせるかは、アタシが計算した」


──それじゃあ、お前が奴らの片棒を担いだようなものじゃないか。


「メゾ的状態の外ってのは……俺たちが認識してる、この世界のことか?」


「それぞれが勝手に認識している、この現実世界のことだよ。“デコヒーレンスの壁の外”って言う人もいる。アオイとかね。一万分の一センチメートル以上の世界のことだ。

それからシニスってのはもののカタチを嫌う何かだが、これの発生源はミクロの世界では無いんだ。むしろアタシらの世界の上にいるもの。いつの頃からか降りてきた。」


この程度のことをさらりと口にする連中が、組織の上層部にはゴロゴロいるのだろう。

侑斗はそう思い、ふとため息をつく。

──知成力と同じように、知性の高さも人の性悪とは関係ないのか。もしそうなら、同じ種族同士で殺し合う武器なんて、誰も作りはしないだろうに。


その晩は何も起こらなかった。侑斗は早めに夕食を摂り、気晴らしに船内を歩いてみた。


「明日の朝に備えて、早く寝ろよ」


史音の言葉に素直に従い、侑斗は本を読みながら床に就いた。

だが、なかなか寝付けない。


──仕方ない。


侑斗は布団を跳ね除け、静かに起き上がると、デッキへと向かった。


外は真っ暗な海が広がっている。空には雲が流れ、星がぽつぽつと瞬いていた。

だが──侑斗の左腕に、何かが伝わってくる。


遠くに明るくもないのに、海との境がはっきりとわかる“何か”がある。


侑斗は直感した。


すぐに個室へ戻り、修一を揺り起こす。


「……なんだ、まだ夜中じゃないか……」


修一が瞼をこすりながら、半ば寝ぼけた声を漏らす。


「海の向こうから、何かが来る。史音の言ってた“シニスの波束”かもしれない」


侑斗は動揺を隠さずに告げた。


「……いや、何かあったらすぐ史音の探知機が反応して、アイツが飛び込んでくるだろう。だから……」


修一は言いかけて、ふと口を閉ざした。


「橘……それ」


彼が指差した先には、侑斗のバッグがあった。


その中から、小刀のような光がこぼれている。


侑斗もそれに気づく。


──コバルトに輝く、淡い光。


バッグの隙間からこぼれるその光が、薄暗い部屋の中に静かに広がっていた。


「姉貴がおまえに渡したものだろう? ……何かの前兆だ!」


修一は素早く上着を羽織り、史音を起こしに向かった。侑斗はその間、通路で待つ。船内の灯りは最低限に抑えられ、わずかな揺れが床を伝ってくる。海の外は深い闇に包まれ、時折、波が船腹に打ちつける音が響いていた。


史音の部屋は鍵がかかっていなかった。修一が戸を開けると、薄暗い室内で史音は寝ぼけた声を上げた。


「なんだよ、修一……。そりゃあ、そういうこともいつかは経験しなきゃいけないだろうけど、今はそんな時じゃないだろ……」


布団の中からぼそぼそと呟く史音に、修一は手短に状況を説明する。


「2分待て! すぐ着替える。修一、別に出ていかなくてもいいぞ」


史音は布団を跳ねのけると、瞬く間に服を整えた。修一は相手にせず、外に出てドアを閉める。すぐに史音も現れ、彼女は足早に船橋へと向かった。


船橋には夜の交代要員が立っていた。操舵士と航海士が計器を確認しながら低く言葉を交わしている。彼らの顔には緊張の色が浮かんでいた。史音は迷いなく彼らに話しかけ、早口で何かを伝えた。


4年前から独学である程度の外国語を学んできた侑斗だったが、史音の話す言葉は理解できなかった。だが、その場の空気からただならぬ事態が進行しているのは明白だった。


船内が次第にざわめき出す。各所で人の足音が響き、急ぎ足の乗員たちが影のように動き回る。史音がふいに振り返り、はっきりとした声で命令を下した。


「明かりはつけるな!」


彼女の言葉が船橋に響く。船長をはじめ、10人近い乗員が次々と集まり、暗がりの中で緊迫した会話が交わされる。


史音は自分の端末を船の探知機に接続し、有機パネルへと投影する。スクリーンが一瞬暗転し、次いで波打つ黒い画面が現れた。


「レーダーやソナーには何も反応しないな。シニス専用の探知システムなんだけど……」


「簡単に探知できるって言ってなかったか?」


侑斗は不審そうに史音を見る。天才の言葉は時に信用しづらい。


「センサーを調整して第一近似からシニスの無力(むちから)を測ってみよう」


史音が端末を操作すると、黒い画面の端にうねるような模様が浮かび上がった。その数は数十にも及ぶ。動きはどこか侑斗が4年前に目撃したものと似ていた。


史音はスクリーンを見つめ、わずかに眉をひそめると、低く呟いた。


「ふむ……。アイツらのやり方を予想できるのと同じように、アイツらもアタシのやり方を予想していたみたいだな。時間も天文薄明より早いし、航路をすべて捜索する方法も取っていない」


沈黙を破ったのは修一だった。


「あとどのくらいで接触しそうなんだ? ていうか、接触したらこの船は消えるぞ」


「まあ落ち着け。アイツらは人海戦術でアタシの送った航路を全部捜索すると思ってたんだ。そこまで薄くなったシニスなら探知されないと踏んでたんだが……」


史音は一呼吸おいて、続ける。


「奴らは操るシニスを分断し、大きさを変えて索敵範囲を縮めた代わりにシニスの力を強めた。だから――分断されたシニスの間を航行すれば、上手くすり抜けられるかもしれない」


「……かもしれない?」


侑斗は訝しんで史音を見つめる。あまりにも不確定すぎる。


「とりあえず、一番大きな波濤を避けていこう。波の動きと変わらない速度だから、逆に考えれば避けやすい。明るくなるまで逃げ続ければ、小さくなったシニスの波束は太陽の光に耐えられないはずだ」


吸血鬼みたいな話だな、と侑斗は内心ぼやいた。なるほど、だから夜中に襲ってきたのか……。


史音はさらに指示を出す。


「なるべく電力を使うものは切れ。電磁力は四つの力の中でも唯一、メゾの外で探知されやすい存在力だからな」


船内が一気に闇に包まれる。黒い海に、黒い船が溶け込んでいく。


やがて史音の言っていた「無の波濤」が見えてきた。闇の中でわずかに揺らぐそれは、有機パネル上で最も大きな波束だった。その向こう側には、次に大きな波束が控えている。


「取り舵!」


史音の指示通り、幽霊船は二つの波束の間を縫うように進む。さらに進むと、もう一回り小さな波束が現れた。史音は即座に進路修正を指示する。


「シニスの波濤のスピードは計算できる。分断したとはいえ、そんなに大量の波束を作れるわけじゃない。あと数回避ければ、逃げ切れるはずだ」


彼女は額の汗を拭いながら、口元にうっすらと笑みを浮かべる。しかし、侑斗は違和感を抱いた。


「史音、奴らはこの波束を作るのに何人くらいの知成力を使ってるんだ?」


史音は端末のデータを見ながら答える。


「大きいので200人前後、小さいのは数十人くらいじゃないか」


「じゃあ、これも?」


侑斗は無力レーダーの端に細く伸びた波束を指さす。


「これも十数人程度か? それにしてははっきりしてるし、スピードも早い……。そんなに小さい力なら、普通は探知されないよな?」


史音の表情がわずかに強張る。彼女は波束を凝視し、そして呟いた。


「あー……これはまずいな。アタシとしたことが、うっかりしてた」


「史音、どうなる?」


修一が史音の頬をつかんで鋭く問い詰める。


「このままだと……あと1時間くらいで、この船が消える」


船内の静寂が、かえって恐怖を際立たせた。

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