36、現在 朝靄の中の出発
潮の音が静かに響く、薄い朝靄に包まれた埠頭。海面はまだ眠たげに揺れ、霞んだ水平線の向こうから微かな光が差し始めている。その中で、橘侑斗と葛原修一は無言で並んで立座っていた。二人とも簡素な軽装で、旅の準備が整ったとは言い難い。修一から侑斗に連絡が入ってから、わずか二日しか経っていないのだ。侑斗自身、なぜ自分が指名されたのかも知らない。ベルティーナの意図など、知る由もなかった。
「舟で行くんだな。」
侑斗は立ったまま、座り込んでいる修一に目を向けた。
「大陸まではな。空は、あいつらの庭みたいなもんだから。」
修一は、いつもの飄々とした態度で答える。その落ち着きは、危険な任務を前にしても微塵も揺るがない。
日給十万。十日で百万円。数字だけ見れば悪くはないが、命を賭けるには少々安い気もする。
侑斗はふと、現実的な不安が頭をよぎる。
(船酔い、大丈夫かな……)
「その史音っていう天才児、本当に来るんだろうな?」
侑斗は少し苛立った声で尋ねた。
「あいつはな、約束を破るって発想自体がない女だ。」
修一は断言するように答え、視線を遠くの海へと移す。
「まあ、見た目は可愛い女の子だ。性格は……まあアレだが。と、お前、そういうのに興味なかったよな?」
「わかってるなら言うな。」
侑斗は軽くため息をつきながら返す。
そのとき、朝靄の向こうにぼんやりと人影が現れた。ゆっくりと、貨物の間を縫うように近づいてくるのは、見覚えのある姿——白いブラウスに青のチェック柄の上着を羽織った修一の姉、零だった。彼女の存在感は、淡い靄の中でもはっきりと浮かび上がる。
零は座り込んだ修一に一瞥をくれただけで、侑斗の前に立ち止まる。そして、布に包まれた細長い物を差し出した。
「これを持って行って。」
侑斗は少し戸惑いながらも、両手でそれを受け取る。布越しに伝わる冷たい感触。
「あなたの青のサイクル・リングで使えるクリスタル・ソオドを小さくしたもの。私が作った。力は本来の千分の一ほどだけれど……これは、貴方を守るため、そして私が貴方を見守るために必要なもの。」
「なんで修一じゃなくて俺に?」
侑斗は眉をひそめる。
零は少しだけ首を傾げ、冷ややかな視線で侑斗を見る。修一は「アホか」という顔で彼を見上げた。
「これは、あなたにしか使えない。」
零は手を後ろで組み、静かに一歩下がる。そして、か細いが美しい声で言葉を紡いだ。
「本当は行かせたくなかった。でも、もう取れるルートがなかったの。また……彼女に道を塞がれた。」
その言葉を残し、零は踵を返して歩き去っていく。その背中が朝靄に溶け込む直前、祈るような声が風に乗った。
「守っているから。私は、どんなに離れても。」
零の姿が完全に消えた後、侑斗は彼女から受け取った物を持参のバッグにしまい込んだ。
「いつでも取り出せるようにしておけよ。」
修一が立ち上がり、ズボンについた砂を払う。
「何が起こるかわからないし、姉貴の造った武器なら……まあ、役には立つだろう。」
それから数分後、ようやく小柄な少女の姿が現れた。短く切りそろえた髪と、見慣れない形の帽子が特徴的だ。足取りは軽やかだが、どこか不機嫌そうなオーラを纏っている。
「修一、待たせたなぁ。一応アタシも女なんで、身支度に時間がかかって……」
そこまで言ったところで、少女は侑斗に目を留め、中途半端な笑顔のまま固まった。
彼女は自分の頬を両手で叩き、表情を無理やり元に戻す。
「修一さあ、確かに『人間やってる奴なら誰でもいい』って言ったけどさぁ……ここまで冴えない奴とは予想してなかったなぁ。」
侑斗は無表情を貫く。心の中では、(悪いな、ご愁傷様だ)と皮肉めいた独白を呟いていた。
「まあ、俺もなんでこいつが指名されたのか、よくわからないんだけどな。」
修一は適当に侑斗を指さす。
「悪いな、二人で悪口言って。」
侑斗は肩をすくめた。
「いいよ、気にするな。他人に否定されるのには慣れてるから。最低の烙印なら、世界ランクだしな。」
「橘、これが例の天才小娘、西園寺史音だ。」
「小娘言うな!」
史音は怒りながらも、修一に軽く拳を振り上げた。しかし修一は面倒くさそうな顔で続ける。
「天才小娘の史音さん、こいつがベルティーナご指名の橘侑斗だ。」
その瞬間、史音の顔が再び固まった。
「たちばなゆうと? 橘侑斗……あー、あー、あー、お前がか! なるほど、そういうことか!」
ベルの想い人の失敗作で、優香に殴られて、地の底まで落ちた残念すぎる男。
「まあ、あんたも色々あったんだろうけど、受け入れな。あんたのせいで、一度世界が滅びかけたんだから。」
(知るか!)
侑斗は心の中で再び叫んだが、表情は変えない。
「まあ、あんたの贖罪ってことで、ベルの選択を受け入れよう。」
知らないうちに贖罪を背負わされた人生。……まあ、いつものことだ。
侑斗は無表情のまま、史音に向かって淡々と言う。
「よろしくお願いします。」
史音は引きつった笑顔で、少しだけ後ずさる。
「……お、おう。よろしくな。」