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34、現在 還元論者のジレンマ

静寂が支配する薄暗い個室。唯一の明かりは、中央に置かれた集中端末のモニターから漏れる冷たい青白い光だった。その光に照らされ、在城龍斗は無機質なキーボードを手慣れた動作で叩いている。指先はまるで機械の一部かのように正確で、迷いのない立ち振る舞いだ。画面には複雑な数式と膨大なデータが流れ込んでいる。


「何をしているのですか? 龍斗。」


背後から静かに声が響く。フィーネ・クローゼルの声は掠れた低音で、まるで部屋の冷気に溶け込むかのようだった。彼女は口元まで覆う羊皮の上着を羽織り、無表情な瞳で龍斗の背中をじっと見つめている。


龍斗は振り向かず、淡々と答える。

「見ての通り、再計算だよ。」


フィーネは音も立てずに少しだけ距離を詰める。

「計算は私が何度もしました。目的までの282段階、その過程を22,185回も繰り返して……私が信用できないのですか?」


その問いに龍斗は微かに首を傾げ、肩越しに振り返る。彼の顔には微かな笑みが浮かんでいたが、それは冷たいものだった。

「フィーネ、僕が誰かを『信じる』なんて本気で思っているのかい?」


フィーネはその言葉を予期していたかのように表情を変えず、淡々と返す。

「あなたが、個を維持したままの人間を信用していないのは理解しています。あなたが求めるのは、盲信者だけ……それでも、かつてあなたは一人の人間を信じていました。」


その言葉が空気を微かに震わせる。龍斗の指が止まり、無機質なキーボードの打鍵音が途絶える。静寂が再び部屋を支配する。


「アオイ……いや、椿優香のことを言っているのかい?」

「他に誰がいるのですか?」


龍斗はゆっくりと立ち上がり、無造作に計算結果を途中でセーブする。端末の光が彼の横顔を照らし、瞳の奥に隠された迷いを浮かび上がらせた。


「フィーネ、優香の消息は未だ不明なのか?」


フィーネはわずかに目を細め、低い声で答える。

「さあ。もう捜索すらしていません。私の計算は葵瑠衣を除外して進めていますが、仮に彼女が生きていたとしても……大した影響はないでしょう。」


その冷淡な言葉とは裏腹に、龍斗の心には優香の存在が深く根付いていた。枝の神子たちの間で囁かれる噂が脳裏に蘇る。葵瑠衣が椿優香となってから、まるで煙のように姿を消した。それでも、女王ベルティーナと西園寺史音だけとは密かに接触を持っていたという。


龍斗は、最後に交わした優香との会話を思い返す。


――あれは4年前、最初の崩壊が止められて間もない頃。


その日も今と同じく、彼は分析に没頭していた。崩壊現象の細部を洗い出し、無数のデータと数式に埋もれていた。そんな彼の背後から、不意に声が響いた。


「龍斗、あの現象は偶然と彼女の作為が引き起こしたもの。そして偶然が、世界を救った。状況分析だけじゃ、次の崩壊は防げないよ。」


振り返ると、そこには葵瑠衣――いや、椿優香が立っていた。彼女はゆっくりと歩み寄り、柔らかな光がその鋭い瞳を照らしていた。


「アオイ、そっちは大変だったそうじゃないか?」


優香はわずかに微笑むが、その笑みはどこか儚く、隠しきれない疲労が滲んでいた。

「大変だったよ。貴方が思っている以上にね。でも、私は何もしていない。」


彼女は龍斗の傍らに立ち、無言で彼の端末のモニターを覗き込む。許可も求めず、素早く全てのウィンドウを開き、彼の作業内容を確認する。数分後、彼女は再び後ろに回り込む。


「……状況分析というより、ベルと葛原零の力の使い方を精査しているね。どうして?」


龍斗は立ち上がり、背後のテーブルに置かれたボトルから静かにダージリンを注ぐ。その琥珀色の液体はカップの中でわずかに揺らめく。彼は一口含み、少しの無言の後に答えた。


「アオイ、君の言う通り、あれは偶然と多くの要素が交錯した結果だ。それ自体を分析しても意味はない。だが、女王と彼女は僕にいくつかのヒントをくれた。」


彼はもう一つのカップに紅茶を注ぎ、優香に差し出す。優香はそれを受け取り、静かに口に含む。


「ヒント?」


「そうだ。……きっかけはフィーネが教えてくれたんだが。」


その名を聞いた優香の目がわずかに細まる。


龍斗は一瞬、全てを語るべきか迷った。しかし、今はまだその時ではないと自分に言い聞かせる。


「女王は些細な知成力でも積み重ねればシニスに対抗できることを示してくれた。そして、敵である葛原零は知成力を用いてシニスを操る可能性を示唆してくれた。そのことから、僕は地球を救う方法を考えているんだよ。」


優香はカップをテーブルに置き、鋭い視線で彼を見つめる。

「現場にいた私には、あれが何かの可能性になるとは思えなかったけどね。二人の力の使い方は、到底褒められるものじゃなかった。」


龍斗は紅茶を飲み干し、再び静かにカップを満たす。

「アオイ、君も知っているだろう? 僕らは事を成す時、常識や一般論なんて考慮しない。目的は達成されるために存在する。手段に囚われるのは独善者のすることだ。」


優香はゆっくりと立ち上がり、窓の外へ目を向けた。

「私は常識が世界で共有できるとは思っていない。しかし、人は良識を持つべきだと思っている。良識の源は他者への共感力……つまり、他人の痛みを理解する力。それがなければ、人は美しく生きられない。」


その言葉に、龍斗は改めて彼女らしさを感じ取った。


「そうだね、アオイ……いや、優香。君の望み通り、これからはそう呼ぼう。」


彼は静かに微笑み、続けた。

「優香、僕たち――枝の神子は、共通して還元論者だ。宇宙の法則も量子の法則も、最終的には単純であることを信じている。ならば、その過程で争うのは無意味じゃないか?」


優香は思わず笑い声を上げる。その声はどこか寂しげで、それでいて暖かかった。

「龍斗、それは還元論じゃなくて不可知論だよ。世界は芯だけ知っていればいいものじゃない。貴方は還元論の先に『無』があると考えている。でも私は、還元論の先には無数の『個』があると信じている。」


龍斗はふっと息を吐き、優香の瞳を見つめた。

「君がカリスマを持てないのは、君自身がそれを嫌っているからだろう? そのくせ、僕よりも強いカリスマを持つ女王ベルティーナに付き従っている。僕たちはこんなにも似ているのに、なぜ同じ方向を見つめることができないのだろう?」


「わからないの? 私たちは、こんなにも似ていないからだよ。それに、私はいつも見つめる方向を変えている。貴方にもそれを期待していたけど……無理みたいだね。」


優香はそう言い残し、静かに部屋を後にした。それが、龍斗が最後に見た優香の姿だった。


今も枝の御子たちから彼女の消息は届かない。混沌の中で唯一、消えてほしくない存在――それが優香だった。


「フィーネ、僕は……うまくやれるだろうか?」


龍斗の問いに、フィーネはわずかに肩をすくめ、淡々と答える。

「さあ。」


その素っ気ない返事がかえって龍斗の胸に重く響いた。


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