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33、過去  名を捨てて、理を継ぐ

 鳥居をくぐり、苔むした石段をおよそ五十段ほど登った先に、その神社はひっそりと佇んでいた。草木が生い茂り、石段の隙間からは小さな雑草が顔を覗かせ、手入れの行き届かない境内はまるで時の流れから取り残されたかのようだった。


 境内の中央、古びた灯籠の影に立つ少年が、腕時計をちらりと見て口を開いた。


「本当に正確だな。五分も待たなかった。時間の約束をするのを忘れてたから、半日は待つつもりでいたんだが」


 その声は乾いた風に溶け込み、静寂の中でやけに鮮明に響いた。


 彼の視線の先に立つ女性は、わずかに眉をひそめて答える。


「位置は五メートルもずれていた。少し計算を間違えた」


 彼女は淡々とした口調でそう言うと、ゆっくりと少年――修一の方へ向き直った。


「あんたは、そんな細かいことに拘るタイプじゃないと思ってたけど?」


「拘ってるわけじゃない。ただ、事実を言っただけ」


 修一の肩越しに吹き抜ける風が、彼女の髪をそっと揺らす。彼女はそのままふっと視線を落とし、口元にかすかな笑みを浮かべた。


「……あんたが、伝説の“ファントム・レディ”のアオイか?」


 その言葉に、彼女はわずかに目を細める。


「そんな恥ずかしい名前で読んでる奴がいるの?片っ端から張り飛ばしてやりたいね。葵の名はもう使わない。今日から私は椿優香でいい」


 修一は興味なさげに壊れかけた賽銭箱へ腰掛けた。腐食した木材がわずかにきしむ音がするが、彼は気にも留めない。その姿に、優香は内心で苦笑する。肝が据わっている、というよりも、無鉄砲さすら感じさせる態度だった。もっとも、それが“彼女の弟”なら当然か。


「この神社、面白いよな。本殿に辿り着くには草を掻き分けないといけない。まるで誰かが、わざと隠したみたいだ。手入れも全然されてないし」


 確かに、誰も来ない。いや、来ることすら想定されていない場所だった。位相移動なんて大げさな手段を使わなくても、この場所は既に現実から切り離されている。


「昔はこちらが本殿だったんだろう。神体が移された後も、こうして存在し続けているのは、それだけ強い存在力が宿っているから」


 優香の言葉に、修一は軽く頷いた。


「姉貴が言ってたよ。“女王か、ロッゾの魔女以来の手強さだ"ってな」


 どうでもいい話だった。優香は無関心を装うように、青く澄み渡る空を見上げた。雲ひとつないその広がりは、まるで世界の危機など存在しないかのように穏やかだった。


「……あなたは姉の正体を知りながら、付き従っているのね? あなたも、ただの男の子じゃない」


 その鋭い指摘に、修一は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに肩をすくめる。


「俺の中の時間では、まだ幼い頃、姉貴に『地球の枝』に触れさせられたんだ」


 優香は黙ってその言葉を咀嚼し、やがて静かに頷いた。


「なるほどね」


 彼女は心の内でデコヒーレンスの壁を操作し、この世界の理を自分に都合よく書き換える。修一が存在する過去、その記憶の断片に、彼女自身が干渉した事実を再確認する。


「姉貴は、『地球の枝』に自分で触れることを嫌がったんだ」


 そう呟いた修一を横目に、優香は崩れかけた石台の縁に腰を下ろす。ひんやりとした石の感触が、微かに現実感を引き戻してくる。


「『地球の枝』に触れれば、彼女自身がこの世界に取り込まれてしまうから。知成力と存在力に優れ、些末な常識に囚われない、私たち側の協力者が必要だった。だからこそ、彼女は“弟”であるあなたを選んだんだよ」


 それが幸か不幸か――優香は心の中でつぶやく。この世には、知るべきでない事実が存在するのだ。


「『地球の枝』、生成樹に触れた“枝の神子”たちは、今や幾つもの集団に分かれている。私もその全容は把握しきれていない。……あなたは姉の味方でありながら、私たちに協力するの? 私の組織のトップは、あなたの姉の仇敵だよ?」


 修一は再び肩を竦め、気の抜けた笑みを浮かべた。


「姉貴の行動原理と俺の行動原理が違っても、別に問題ないさ。姉貴も、そこまで求めちゃいない。ただ……最後の最後には、俺は姉貴の味方に付くだろうけどな」


 ――お姉さんの目的は、貴方さえも捨てて“彼”と共に生きることだったのに。


 優香はその言葉を喉の奥で飲み込み、そっと目を閉じた。


 やがて静寂を破るように、彼女は顔を上げる。


「……木之実亜希。今までもそうだったでしょうけど、しっかりと見守って。彼女が私たち全ての切り札だから」


 淡く光る空の下、“枝の神子”である二人は、静かに別れを告げた。


 車に戻った優香は、運転席に腰を下ろし、電源を切っておいたスマートフォンの画面を点灯させた。予想通り、ベルティーナからの着信履歴が何件も並んでいる。


 全てを報告するわけにはいかない。けれど、彼女が最も知りたいことだけは伝えておくべきだろう。優香はため息をつき、発信ボタンを押した。


「ええ、そう。彼は彼女のところに置いてきた。……何? ベル、彼を連れ帰る約束だったって? それは無理だよ。でも心配しないで。彼が彼女に惹かれることは、いえ、全世界の女性に惹かれることは、もう多分ないから」


 一瞬の迷いの後、優香はさらに続ける。


「それから、ベルティーナ。今日で“葵瑠衣”はおしまい。そもそも私が本物の葵瑠衣じゃ無いことを貴女はとっくに知ってるでしょう?私の名前は――椿優香」


 通話を切るボタンを押す指先は、まるで何かを断ち切るように、静かに震えていた。

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