31、過去 曇天の邂逅、交錯する殺意
優香が車を止めたのは、亜希たちと別れた隣駅の小さな駐車場だった。エンジンが沈黙し、車内に残るのは自分の呼吸音だけ。ハンドルに置いた手にまだわずかな熱が残っている。窓の外は曇天。灰色の空が低く垂れ込め、世界全体が薄暗いフィルムで覆われたようだ。
――少し感情が入りすぎた。
優香は独りごちる。本来なら、ただ演出をするだけで十分だったはずなのに。ドアを開けて外に出ると、冷たい空気が頬を刺す。周囲を見渡し、自分の位置を確認する。曇天の下、ぼやけた建物の輪郭が無機質に並んでいる。ここから安全なルートを探さなくてはならない。頭の中で思考が加速し、計算が始まる。
位相の波頭を定めたその瞬間、目の端に違和感が走った。
――……あるはずのないものが、ある。
駐車場の隅、くすんだ灰色の景色の中に、不自然なほど鮮やかな青い自動車が佇んでいた。まるで、そこだけ別の世界から切り取られたかのように。
車の前に立つ人影。
優香の心が一瞬だけ凍る。
ああ――あの人が、そうか。
葛原零。
ベルティーナの永遠の敵。そして――
気づけば、世界には優香と零しか存在しなかった。周囲の雑踏も、車のエンジン音も、すべてが遠くへ消え去る。まるで二人だけが異次元に引きずり込まれたかのように。
優香は冷静さを保とうとする。位相の波頭を何度かずらしてみたが、零は微動だにしない。ただ、そこに立ち続けている。
――どうやっても、無駄か。厄介だな。
「あなたが女王の駒?」
零が静かに口を開いた。その瞳は、透明な湖面のように美しく冷たい。
優香は何も答えない。ただ、相手を観察する。
「けれど、そんなことは今はどうでもいい。あなたは彼を傷つけた。どんな理由があろうと、私はあなたを許さない。」
その言葉は、氷の刃のように鋭かった。
優香は肩をすくめ、悪びれることなく言い放つ。
「そうだね。本当のことは、いつだって一番人を傷つける。でも、仕方がないよ。本当のことだから。」
零の瞳が一瞬、蒼く染まった。深い怒りが、その瞳の奥に渦巻いているのがわかる。
「おまえなんか、存在ごと消し去ってやる。この世界のどこにも、塵ひとつ残さずに。」
零が左腕をかざすと、青い輝石を飾ったネックレスが胸元に浮かび上がる。その光は、曇天の下で異質なまでに鮮やかだった。
優香は自分に言い聞かせる。ひるむな。奮い立て、私。
「そうしたいのなら、そうすればいい。貴女にはその権利がある。」
零の瞳は揺るがない。しかし、どこかに迷いの色が滲んでいる。
「わからない……女王はユウとそのサイクル・リングを私から奪った。でも、あの女が彼を傷つけるとは思えない。」
零はそう言うと、輝石の光を優香の周囲に展開する。その光はまるで生き物のように揺れ動いていた。
優香は冷ややかに反論する。
「譲り受けたと、私は聞いているけど?」
そして一歩、前に踏み出す。
「葛原零、一つだけ忠告する。この世界では、他人が恋愛感情を押し付けようとすると、だいたい女の子は拒否反応を示すんだよ。**女の心を弄ぶことは許されない。**だから――」
優香は強い意志を込め、言葉という名の刃を零に向けて突きつけた。
零の瞳が鋭く細まる。
「貴女たちを傷つけ、苦しめた彼も一緒に――消し去ればいい。」
その瞬間、零の動きが止まった。空気が張り詰める。
「……貴女は、何者? 貴女からは……」
零が何かに気づきかけたその時――
「やめとけよ、姉貴。ここは引くべきだ。」
背後から男性の声が響く。まるで割れたガラスが元に戻るかのように、世界が再び現実へと引き戻される。
小さな町の大通り。車が行き交い、人々が無関心に歩いている。さっきまで存在していた異質な空間は、跡形もなく消えていた。
声の主は、腕を組んで立つ少年だった。冷めた目で優香と零を交互に見つめる。
零はその少年の言葉を受け入れるように、優雅に踵を返す。その瞳にはまだ怒りの残滓が揺れていたが、それ以上は何も言わなかった。
「貴女が何を言おうと、**私が守りたいのは彼だけ。**貴女が何者でも関係ない。見逃すのは今回だけ。二度と彼の前に姿を現すんじゃない。」
冷酷な言葉とは裏腹に、零の声は美しく荘厳だった。そのまま振り向き、少年の横を通り過ぎる。
その瞬間、少年はそっと優香に囁く。
「……あんたに話がある。位置情報はここに今書いた。GPSの生情報で相対論補正はしてないが、あんたなら自分で計算できるだろう。」
小さな紙切れが、優香の手の中に滑り込んだ。
冷たい風が吹き抜ける。まるで、さっきの異質な世界がまだどこかで続いているかのように。