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30、過去  苦い水と甘い毒

駅から少し離れた、小さなカフェ。窓の外には曇天が広がり、鈍く垂れ込めた灰色の雲が街を沈ませている。淀んだ空気がわずかにガラス越しに伝わり、亜希は無意識にカップを両手で包んだ。

向かいの席には、俯いたままの侑斗が座っている。彼の影は、まるで曇り空がそのまま人の形を取ったかのように重たかった。


「何か飲む?奢ってあげるよ」

軽く言い放ちながらも、亜希の声にはどこか不自然な優しさが滲んでいた。


侑斗は微かに顔を上げ、乾いた唇からかすれた声を絞り出す。

「……水」


亜希は一瞬、眉をひそめる。目の前にはすでにウエイトレスが置いていった水のグラスがあったからだ。侑斗の視線はそこにすら届いていない。


「……すごく苦い水が飲みたい」


亜希は乾いた笑いを漏らす。

「ははは、さすがにそんなメニュー、私は知らないなぁ。とりあえずアメリカンをブラックで飲んどきなよ」


侑斗は返事もせず、ただ黙り込む。彼の沈黙は、亜希の中に小さな苛立ちを芽生えさせた。けれどその苛立ちの奥には、理解しがたい別の感情が潜んでいることにも気づいていた。それは同情とも違う、ただの好奇心とも違う、未だ名前を持たない感情だった。


「あのさ」

言葉を探しながら、亜希は侑斗をじっと見つめる。彼のうつむいた顔は、不景気を通り越してデフレスパイラルに陥ったような、救いようのない表情だった。


「正直、私もあの人が何考えてるか分からないし、変な人だとは思うよ」

亜希はわざと軽く言う。だけど、その裏にある自分の気持ちをごまかすためでもあった。

「けどさ、あんなこと体験しておいて、年上の綺麗な人に入れ込むあんたもどうかしてると思う。普通なら、もっと驚きなよ。驚愕しなよ。あんな気味の悪いもの、見たんだからさ」


カップに口をつける。アールグレイの香りが鼻先をくすぐるが、心のざわつきを落ち着かせることはできなかった。


「まあ……それはともかく」

一息ついて、侑斗の額をデコピンで弾く。

「っ痛!」

彼が顔をしかめる。

「ちゃんと聞け」


冷たさを帯びた瞳で侑斗を睨む。けれどその奥では、不思議な温度が揺れていた。


「もし間違ってたら指摘しなさい。あんたはあの変な人に今日初めて会って、どこかで捕まって、あの現象が起こった場所に連れて行かれた。それから、あんたの目には綺麗に映るあの人に惹かれて、ことごとく否定するあの女性に執着していった。まあ、私が途中から加わったのはあの人にとっても予定外だったみたいだけど。それで、全てが終わった後、私たち以外の人たちの記憶は消えて、あの人は理由もわからないまま、あんたに憤慨して、殴って、罵声を浴びせた。以上、間違いないよね?」


侑斗はただ黙ってうなずいた。


「でさ、私が想像できる範囲で、あんたがあんな仕打ちを受ける理由は思いつかない。なのに、なんでそんなに落ち込んでるわけ?」


その問いの裏には、もう一つの声が潜んでいた。あんな人が、あんたの全てじゃない。


しばらく沈黙が流れた後、侑斗がぽつりと呟く。

「木之実さん……」

「亜希でいいよ」

声を遮るように言う。


侑斗は少しだけ視線を上げた。彼の瞳は、深い闇に沈んでいるようだった。

「俺、他人から否定されるのは慣れてるつもりだった。でも……どこかで、誰かに認めてもらいたかったんだと思う。だから馬鹿にされても、クソ真面目に生きてきた」

自嘲気味な笑いが喉の奥で詰まる。

「でも、子供の頃からずっと、心の奥で自分を否定する声が聞こえてた。何度も、消えてしまいたいって思った。でも……そんな時、どこかのお姫様みたいな赤い瞳が、俺を支えてくれたんだ」

彼は微笑んだが、それは痛々しいほど壊れかけていた。

「……中二病だよね。でも、今はその瞳が見えない」

亜希は侑斗の右腕に目を向ける。そこには青いリングが光っているが、以前はあったはずの赤いオーラは消えていた。


ベルティーナのカーディナル・アイズの結界は零のアクア・クラインによって外されていた。


「多分、俺は存在するだけで誰かを苛立たせる業を背負ってるんだ。これからもずっと、続くんだろうけど……今回は、少しきつかったな」


投げやりな言葉。だけど、亜希の中に生まれた感情は怒りではなかった。苛立ちでも、呆れでもない。

それは、不器用に差し出された侑斗の孤独を、放っておけないと感じた瞬間だった。


「私、言ったよね?生まれついて不思議なことばかりに出会う体質だって。だから、あんたの言うことも、あんたの業も否定しない。でもさ、生まれつき変な業を背負わされてるのは、あんただけじゃないんだよ」


侑斗の瞳に、わずかな光が戻った気がした。


「私さ、とりあえずあんたが女性不信にならないように、これからも時々カウンセリングすることにしたから」


拒否する気力も残っていないだろう。だから無理やり、連絡先を交換する。


「へぇ、あんた高校生なんだ。中学生かと思ったよ。だから年上に憧れたのか。……“夜郎自大”って言葉、知ってる?」

「知らない」情け無い声で侑斗は答えた。

「じゃあ、次に会う時までに調べといて。答えは聞かないから、自分で納得するだけでいい。それから一応言っとくけど、私は大学生であんたより年上だけど、変な感情は抱かないでね」


「……はい。二度としません」


ああ、本当に深刻だな、と亜希は思う。

だけど、どこかで思っていた。ついでにダメ押しをしておこう。


「……あんた、今日のことを全部忘れて、このまま逃げて、二度と私に会わないつもりでしょ?そんなことしたら、ストーキングしまくるよ。ついでに冤罪いっぱい作って、SNS上で有ること無いこと言いまくるから、私の覚悟伝わった?」

微笑みながら言い放つと、侑斗の顔が青ざめた。犯罪予告が伝わりました。


窓の外の空は、まるで今にも落ちてきそうなほど灰色だった。亜希はその色を嫌だと思ったけれど、なぜかその嫌悪感は、もう少しで温もりに変わりそうな気がしていた。

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