29、過去 壊れた心と、始まる因果
駅前に車を止めると、優香は無造作にドアを開け、緩い空気の中へ一歩踏み出した。冬の午後、曇天の下で車のエンジン音が静かに消える。優香は振り返ることなく、肩越しに無感情な声を投げた。
「さあ、二人とも。待ち望んだ現実に戻ったよ。後は自分の居場所に帰るだけ」
乾いた声は冷たい風に乗って、侑斗と亜希の耳に刺さる。彼女の背中は、まるで何もかも切り捨てたかのように小さく、遠ざかっていく。
「ちょっと待ってください!」
侑斗の声が鋭く割れた。焦燥と混乱がないまぜになった叫びだった。彼は震える足で地面を踏みしめ、優香の背中にすがるように続ける。
「あなたは分かっているんでしょう?あれが何だったのか、説明してください!なんで……なんで、まるで何もなかったみたいに行ってしまうんですか!」
優香の足がピタリと止まる。風が吹き抜け、彼女の髪が微かに揺れた。
「……やかましいなあ」
その声はかすれていたが、怒気が潜んでいた。優香はゆっくりと振り返ると、侑斗に向かって一直線に歩み寄る。顔に浮かんだ感情は、怒りでも悲しみでもなく、ただ――圧倒的な苛立ちだった。
「だから、俺にも分かるように……!」
侑斗が言い終わる前に、優香の右手が鋭く振り抜かれた。頬に焼けるような痛みが走る。乾いた音が冷たい空気を切り裂いた。
「やかましいって言ってるんだよ、聞こえないのかな?」
侑斗はその場に崩れ落ちた。彼の視界が揺れる。痛みよりも、その言葉の冷たさに心が軋む。
「何も知らないから、無知だからって許されると思うな!」
優香は吐き捨てるように叫ぶ。まるで心の奥底から噴き出すマグマのような激しさだった。
「純粋で、悪意がないからって全てが赦されるわけじゃない!人の想いを踏みにじったままで、どうして許されると思う!」
その声は震えていた。怒りだけではない、何かが混ざっている――悔しさ、悲しみ、断ち切れない記憶。
「私は……こんなに腹が立ったことはない。君は無知すぎる、無能すぎる、くだらない子供以下だよ!」
優香は侑斗を見下ろし、荒い息を吐いた。
「何も知らないことを、自ら知ろうとしないことを恥じるんだね。君には……誰かに恋する資格なんてない。もっと真剣に、人生をやりなさい!」
その言葉は刃だった。侑斗の心に突き刺さり、深く沈んでいく。彼は立ち上がれなかった。ただ、地面の冷たさを感じながら、呆然と虚空を見つめていた。
優香は一瞬だけ侑斗を見下ろし、すぐに視線を逸らすと車に戻り、勢いよくドアを閉めた。エンジンが再び唸りを上げ、彼女は無造作にアクセルを踏んだ。
亜希はその場に立ち尽くしていた。胸の奥で、言葉にならない何かが渦巻いている。怒り?困惑?いや、違う――納得できない思いが、彼女の足を無意識に動かす。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
叫びながら車を追いかける。風が頬を刺すが、亜希は気にしない。足には自信がある。侑斗の視界から二人の姿が消えた頃、優香は急に車を停めた。
無言で降りてきた優香は、振り返りざまに冷たく命じる。
「3歩下がって、それから右に30度、体を回して」
意味がわからず困惑する亜希。それでも、優香の圧に押され、指示通りに動く。
「そこから半歩前に。……ギリギリ、大丈夫かな」
何が大丈夫なのか理解できないまま、亜希は堪えきれず声を上げた。
「あのさ、あんたの言ったことが真実でも、酷すぎるよ」
その言葉に、優香は微かに眉をひそめる。
「目上の人に『あんた』はないでしょ。……仕方がないの。本当のことだしね」
「仕方がない?ふざけないで!」
亜希は声を荒げた。
「人の心をズタズタにするのが仕方ないなんて、どんな理屈よ!あんたの言動は、女性全般の品位を著しく貶めたんだよ。世界中の女性を代表して、謝罪を要求する!」
優香はふうっと深いため息をつき、視線を空へ向けた。
「確かに……気持ちが入りすぎた。でも、あれくらい言わないと、彼は変わらない。彼が……トラウマにならないといけないから」
「は?最初から人の心を壊すつもりだったってこと?」
亜希は唖然とした。
優香はふっと微笑み、少しだけ寂しそうな目で亜希を見つめた。
「だから、お願い。あなたが彼の側にいて。……ずっと、彼の友達でいて欲しい」
その言葉の裏にある本心が、亜希には掴めなかった。
「……あなた、本当に日本人?」
その問いに、優香の瞳がわずかに揺れる。
「……そうか。見えているんだね、貴女には」
優香はもう一度車に乗り、走り去る間際に言葉を残した。
「忘れていた。世界を救ってくれて、ありがとう。それから……貴女には、宿命に抗う力がある。忘れないで」
冷たい風だけが、静かにその場に残った。
侑斗は未だ膝をついたまま、地面を見つめている。
「ちょっと、来なさいよ!」
亜希は侑斗の袖を強引に掴んだ。慰めるつもりはない。ただ、立たせるために――。
「……放っておいてくれませんか?」
侑斗の声はかすれていた。絶望に沈んでいる。
「あんたね……いいから、来なさいって言ってんの!」
その言葉だけが、今の彼を無理やり現実へ引き戻した。