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26、過去 椿優香の不愉快な職業

この世の終わりの終着点として優香が指し示す先には、侑斗も知るトレッキングの休憩所があった。しかし、かつての穏やかな景観は消え失せ、そこに広がっているのは灰色の霧に包まれた異様な光景だった。霧は生き物のように蠢き、空気を腐食させるかのように冷たく、湿った臭気を漂わせている。自動で点いたらしき照明の灯りが霧の合間から不気味に漏れ、まるで朽ちかけた命が最後の輝きを放っているようだった。その光が、死の境界線を描くかのように建物全体を輪郭づけている。


そこまでの道は、灰色の大地に不自然なまでに白く輝く細い線となって伸びていた。亜希の視界に映るその道は、まるで現実と虚無の境界を示すかのようだった。


「早く行かないと、この場所も消えちゃうよ」


優香が軽く手招きする。しかし、その無邪気な仕草には冷酷な現実が滲んでいた。亜希の目には、優香の指先から建物へと繋がる紅い縁取りの細い線が浮かび上がる。白と紅が交錯するその光景は、まるで世界が裂け目から血を流しているかのようだった。建物全体も紅い輝きに包まれ、まるで命を奪われる直前の心臓が最後の鼓動を打つように脈打っている。


ふと気づけば、隣を歩く橘侑斗の体も同じ紅い光に覆われていた。それまで気づかなかったのは、自分が視点を変えることを拒んでいたからだと亜希は悟る。そして、侑斗の右腕には青いリング状の光が淡く輝いていた。それは命の証か、あるいは終焉への刻印か。


優香の不穏な言葉の意味を訝しみつつも、亜希と侑斗は彼女の鋭い口調に逆らうことなく足を進める。再び周囲に目を向けると、灰色の霧の中で真紅のオーロラのような光と、激しく脈打つ蒼い光が交錯し、世界そのものが断末魔の悲鳴を上げているようだった。


優香は二人を先に休憩所の入り口から通し、自らは最後に入り、扉を閉めた。その瞬間、外の世界との繋がりは完全に断ち切られた。


中は異様な静けさに包まれていた。雨や霧を避けて避難してきた男女が10人ほど、無言で並んだベンチに座っていた。その顔には疲労と不安、そして微かな絶望の色が浮かんでいる。奥の方には古びた飲料の自販機が、死にかけた心臓のように弱々しく点滅している。


二人の美しい女性、優香と亜希が入ってくると、場の空気が微かにざわめいた。男性たちからは思わずため息が漏れ、若い女性たちは羨望と嫉妬の混じった視線を送る。侑斗はその様子を見て、自分が「普通の男」であることにほっと胸を撫でおろした。


「えーと、ひーふーみー……私を含めて13人か」


優香は無表情で右手を真っ直ぐに伸ばし、機械的に人々を数える。その声は、まるで既に彼らの運命が決まっていることを示唆するかのようだった。


薄暗い室内には、不穏な静寂が漂っていた。天井の古びた蛍光灯は時折ちらつき、まるで不安を煽るかのようにか細い光を放っている。窓の外は灰色の空が広がり、時折吹きつける強風がガラスを軋ませ、微かな振動を伝えていた。そんな中、そこには異様な組み合わせの人々が集まっていた。


若い男女のカップルが二組、初老の夫婦らしき男女が一組、若い女性二人組、そしてシングルの三十代と思しき男たちが二人。それぞれが微妙な距離感を保ちながら、息を潜めるように座っていた。


その緊張感を破るように、優香の澄んだ声が響く。


「えーと、窓際にいる微笑ましいカップルさんたち、もう少し中央に寄ってくれないかな?」


彼女は軽い調子で、奥の窓際に座る二十代の男女に向けて声をかけた。その口調は明るさを装っているものの、どこか冷ややかさが滲んでいる。


男性はすぐに立ち上がろうとしたが、隣の女性が鋭い目で彼を睨みつける。その視線は氷のように冷たく、男はビクリと肩を震わせ、結局その場に辛うじて留まった。女性は苛立ちを隠そうともせず、優香に向かって怒鳴る。


「ざけんな!なんであんたがそんなこと指図すんだよ!」


空気がピリつく中、優香は全く動じることなく、片眉を上げて軽く笑った。


「はぁい、指図じゃなくてお願いしてるんだよ。もう少し大人になろうね?せっかく貴重な体験を一緒にするんだから。まあ……幸運なのか、不幸なのかは分からないけどね。」


彼女の言葉は、冗談のようでいて、どこか不吉な響きを孕んでいた。場の空気は一層重く、見えない何かがじわりと足元から忍び寄るような感覚に包まれる。


優香は今度は反対側に目を向け、初老の夫婦に声をかけた。


「そちらのお二人は、もう少しこちらに来てくださぁい。」


静寂を破って、夫が低く穏やかな声で応じる。しかしその声音には、年齢相応の威厳が滲んでいた。


「何なんだね?あんたは、いきなり入ってきて他人に向かって……」


その口調は柔らかかったが、次第に硬さが混じっていく。


「少しばかり器量が良いからって、奢っているんじゃないよ。あちらのお嬢さんの言うとおりだ。」


優香は少しだけ面倒くさそうに肩をすくめ、皮肉混じりの笑みを浮かべた。


「私の器量はどうでもいいよ。今の状況の前では関係ないから。おじさまたちが生き延びるための手助けをしているだけ。それが私の職業だからね。ちゃんと働かないと。」


その言葉に場の温度がさらに数度下がったかのような錯覚を覚える。この嘘つきめ、と亜希は思う。車の中での侑斗への態度といい、この女は絶対自分の容姿を余すことなく活用している。


沈黙が訪れる中、侑斗が亜希にそっと震える声で尋ねた。


「……貴女は、全く動揺してないんですね?車の中でもそうだったけど。」


亜希は小さく息をつき、わずかに肩を竦める。


「まあ……私はおかしな体験ばかりしている体質だからね。」


その答えに、侑斗はじっと彼女を見つめる。その視線には「性分なのでは?」という無言の疑問が滲んでいた。亜希は視線を返し、「断じて性分ではなく体質だ」と無言で主張する。言葉にしなくても、その目が全てを語っていた。


それにしても、こんな風に気軽に声をかけてくる男子は珍しい。子供の頃から、男の子たちは何か話したそうに近づいてきても、結局何も言えずに恥ずかしそうに去っていくことが多かった。……そうか、今この子が夢中になっているあの女性と比べると、私は遥かに及ばないと思っているからか!……ああ、そうですか。


そんな複雑な思考を巡らせる亜希を見て、侑斗は確信した。この女性は、無自覚の美人だと。


優香は顎に指を当て、少し考え込んだ。


「正直、細かい説明をしている時間はないんだけどな。どうしようか?今、この世界に存在しているのが自分たちだけかもしれないって……分かってもらうには。」


その声はどこか楽しげでありながら、背筋を冷たくするような響きを残していた。まるで、この不穏な空間そのものが、優香の言葉に呼応するかのように歪んでいく気配があった。


「面倒くさいから、見てもらおうか。」

優香は軽くため息をつくと、自販機の横にある曇った窓ガラスに手をかけ、無造作に開け放った。


その瞬間、外から灰色の霧が怒涛のように押し寄せてきた。まるで意思を持つ獣のように、濁った波が部屋の隙間を貪るように侵入してくる。冷たい風が一陣吹き抜けたかと思えば、霧が触れた壁の一部が、音もなく溶け落ちていった。紙を消しゴムで擦るように、空間そのものが削られていく。


自販機は半分ほど色を失い、無機質な灰色の欠片に成り果てる。金属の質感も、ペンキの鮮やかさも、何もかもがただ“存在”を忘れ去られていく。まるでこの世に最初から存在しなかったかのように。


12人の人々が言葉を失い、立ち尽くした。侑斗も、亜希も、ただ呆然と霧の侵食を見つめるだけだった。唯一、優香だけが平然としていた。


「さて、もう良いかな?」

優香はあっさりと言い、再び窓ガラスを閉める。侵入してきた霧は、切り離された獣の尾のように空中で断ち切られ、取り残された空間の欠損部分が黒々と口を開けていた。その暗闇は、底なしの虚無だった。


優香はふと手をかざす。彼女の手は白く、儚い光を纏っている。まるで夜空に瞬く星屑が、彼女の指先に集うかのようだった。その手が闇に触れた瞬間、ぽつりと光が滴り落ちるように、欠損していた空間が修復されていく。


「このくらいなら、私でも再生できるんだけどね。」

優香は静かに言った。


部屋には、まだ冷たい沈黙が漂っていた。しかし彼女は気にも留めず、語り始める。


「分からなくて良いから、聞いてくださいな。

元々、世界にあるすべてのものを形作る素粒子は、私たちが見るこの“現実”として顕在化する前は、形を持たない、ただの幾多の可能性の波の渦。……ニアデス・キャット、知ってる?」

優香は無邪気な口調で続ける。

「そう、あのエルヴィンさんの思考実験。可能性の重なり合いによって成り立つミクロの世界と、私たちが生きるマクロの世界。その境界には、デコヒーレンスの壁がある。その壁の内側と外側で、“形を創ろうとする力”と“形を崩そうとする力”が絶えずせめぎ合っているの。私たちは、形を崩すものをシニス、創ろうとするものをウレアー、つまり存在力と呼んでいるの。」


沈黙を破ったのは、30代の男性だった。

「シュレーディンガーの猫の話は知ってる。それは……ただの例え話だろ?」


優香は、わずかに微笑んだ。だがその目は冷たいままだった。

「思考実験っていうのはね、実際に行わなくても真実を示すものよ。ま、知っているだけマシかな。

――で、結局のところ、この現実世界って何かと言うと、可能性の重なり合いが、デコヒーレンスの壁を通して投影された“存在力の影”なの。」


彼女は窓の向こうを見つめた。その視線の先には、再び灰色の霧がゆらゆらと揺れている。


「存在力がシニスに負ければ、壊れた映写機が何も映せなくなるように、世界は消える。それが、今、外で起こっていること。」


しばしの沈黙が訪れる。初老の男性が、震える声で叫んだ。

「……こ、こんなのはただの手品だ!訳のわからないことばかり言いやがって……隠しカメラか何かで撮って、ネットに流すつもりだろう?!」


その男に、妻がしがみつく。泣き出しそうな顔で、何も言えない。


「自分の理解の外に有るものは、存在しないと思いたいのかな?」

優香の声は、今度は鋭く、冷え冷えとしていた。


「私はあんたよりずっと長く生きていろんな経験をしている。こんなふざけた話が有るものか」

「そんなふざけた話が有るんだよ。どのくらい長く生きようが、何回生きようが人が世界の理を全て理解できる訳がない」


彼女の言葉は、氷のように鋭く突き刺さった。


「私たちは……ただ、自然の美しさと新鮮な空気を求めてここに来ただけなのに……!」

女性二人が声を上げる。その目は、絶望と恐怖に濁っていた。


「天災が善人と悪人を区別してくれると思う?」

優香は冷たく言い放つ。

「世界にとって、人間の善悪や美醜なんて、何の価値もない。ただ、貴女たちはまだ“ここに存在している”だけ運が良いのよ。――うまくいけば、元の日常に戻れるかもしれないい。」


その言葉が終わるか終わらないうちに、初老の男が叫ぶ。

「もう、我慢ならん!」

彼は優香の隣の扉に駆け寄る。


「やめなさい!カーディナル・アイズの結界は、内側からなら簡単に破れる!」

優香が鋭く叫ぶが、男は振り返らない。


「うるさい!」

男はためらいながらも、勢いよく扉を開け放った。


それは、地獄の門を開いた瞬間だった。


外界から、濃淡の混じる灰色の濁流が雪崩れ込む。その中から、醜悪な影が鎌首をもたげ、男を一瞬で呑み込んだ。彼の妻が悲鳴を上げて駆け寄るが、次の瞬間には彼女も闇に消える。


女性二人、そして扉の近くにいたカップルも、抗う暇もなく灰色の波に飲まれた。


亜希と侑斗は恐怖に駆られて奥へと逃げ込む。しかし、その目の前で次々と人々が“存在”を奪われていく光景は、悪夢のようだった。


「あなたたち、自分の意思でこの世界に存在することを、諦めないで!」

優香の叫びが響く。しかし、彼女の声が届く前に、建物も人も、音さえも消えていった。


「今、地球上のあらゆる人、あらゆる物が、形を失っている……」

優香は呟いた。その瞳に、初めて戦慄が浮かぶ。


その時、葛原零の蒼い輝石によってついに建物を覆うカーディナル・アイズの結界が剥ぎ取られていく。


「計算通り……あとは、彼女がどう動くか……」

優香の胸に、かすかな不安が宿る。

ここまでこの地球で生きてきた、葛原零と言う自分と世界を守る為、ベルティーナと一時的に協力して世界の崩壊を止める。何よりもここには彼がいる。だからこそレイ・バストーレには他に選択肢は無い、そう優香は信じていた。


灰色の波が亜希と侑斗に迫った瞬間、蒼く輝く宝石が幾つも飛来し、二人を取り囲む。灰色のうねりを弾き返す、それはクライン・ボトルの結界だった。


「……そうか、これは彼女の仕業か。……これが、彼女のやり方か。」

優香の声が、かすれていった。

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