238、未来 そして扉は開かれた
──南アメリカ高地、夜。
標高四千メートルを越えるこの地は、昼の光さえ希薄だった。
まして夜となれば、空気は痛いほど冷たく、すべての音が、氷のように凍りつく。
そんな世界の片隅に、小さな焚き火だけが、かろうじて生命の証を灯していた。
そのそばに、彼女は座っていた。
亜希──かつて、自らの分身を失い、仲間たちと別れ、一人その時を待つ女。
彼女は何もせず、ただ夜空を仰いでいた。
焚き火の光に照らされた顔には、安らぎも、希望もなかった。
あるのは、果てしない静寂を映す、空っぽの瞳だけだった。
星が降るように、空を埋め尽くしていた。
無数の光点。遠すぎて、冷たすぎて、手を伸ばす気にもなれない。
世界は、こんなにも広いのに。
自分ひとりでは、その広さに触れることすらできないのだと、亜希は知っていた。
──私は、何をしているんだろう。
心のどこかで、そう問いかける自分がいた。
けれど答えはない。
問いかけるたびに、胸の中はもっと寒くなるだけだった。
かつて、命を懸けて守ろうとした人たちがいた。
共に戦った仲間もいた。
けれど、今は誰もいない。
何もない。
残されたのは、ただこの、凍るような夜だけだった。
──そして、今まで見たことの無い天高く輝く銀河、天の川の中心方向、射手座の方角が真紅に燃えている。亜希を呼ぶ声が強くなっていく。
あの渚で椿優香は言った。彼等は救いを求めて悲鳴を上げていると。自分たちを救う者に願いを託していると。
何の痛みもなく、何の悲しみもなく、それはただ、当たり前のように浮かび上がった。
そのとき──
夜空の一点が、ふわりと脈打った。
それは星の光とは違った。
銀色に、やわらかく、息づくように輝く光。
亜希は瞬きもせず、ただその光を見つめた。
そして、聞こえた。
──音ではなかった。
けれど確かに、心の奥に届いた。
優香の声が、やさしく、遠く、亜希を呼んでいた。
──「ここに、来てほしい。」
続いて、侑斗の声が、かすかな微笑みをたたえたように重なる。
──「亜希さん、俺はあなたを信じている。今までも、これからも」
それだけだった。
押しつけでも、命令でもなかった。
ただ、待っている、とだけ。
焚き火の小さな炎が、ぱちりと弾けた。
亜希はそっと立ち上がった。
背中に、夜の冷たさが刺さる。
足元には、凍った土と、ひび割れた石。
世界は何も変わらない。
それでも──
「……やっと呼ばれた」
亜希は、歩き出した。
焚き火を手で払うように消し、テントも荷物も、そのままに置いていった。
必要なものなど、何もなかった。
空に向かって、一歩。
凍える風が頬を打つ。
それでも彼女は、顔を上げた。
星空に浮かぶ、たったひとつの光へ。
たったひとつの、行くべき場所へ。
歩きながら、亜希はふと思った。
──零さん、もう1人の私、今から行くよ。
その思いは、小さな灯のように、胸の奥で燃え続けた。
やがて、夜の闇に溶けるように、亜希の姿は消えていった。