237、未来 銀河の腕の中で
──すべてが、静まっていた。
量子船の外では、空間が幾重もの層を巻き込みながら、ゆっくりと滑るように広がっていた。
深い海の底にいるかのような、無音の揺らぎ。
世界そのものが、静かに眠っているかのようだった。
船内では、優香と侑斗が背中を合わせて座っていた。
戦いの熱も、怒りも、恐れも──
いまはもう、遠い彼方のことのようだった。
ただ一つ。
旅が終わりに近づいていることだけが、二人の間に静かに流れていた。
「……侑斗。もうすぐだね」
優香の声は、かすかに震えていた。
それは恐怖ではない。
この先に待つ“再生”に対して、言葉にできない焦燥が滲んでいた。
侑斗はしばし沈黙し、それから低く答える。
「ああ……もう、自分が生きてるのか死んでるのかも、よく分からなくなってきた」
その声には、揺らぎがなかった。
未来を断ち切ったその手は、いまここにある“自分”を、しっかりと掴み直していた。
「もし……あの“窓”が、創造者たちによって閉じられていたら……」
優香が小さく息を飲む。
「私たちがしてきたことは──無意味になる」
「……俺は、大丈夫だと思うよ」
侑斗が、静かに言った。
「たぶん、あいつらは全部分かってた。
だから、あんな顔を……」
かつての創造者たち。
その、最後の、哀しみを帯びた眼差しを思い出す。
優香は、小さく頷いた。
そして、ほとんど囁くように呟く。
「うん……。私はやっと、還れる気がする。自分の居場所へ」
「俺は……」
侑斗もまた、何かを言いかけた。
けれどすぐには言葉にならない。
沈黙がふたりの間に流れた。
やがて、ぽつりと。
「イタリアの冷たい川から引き上げられたときから……
もう、今の自分が、浮かび上がってたんだ。
優香がいるなら、それが俺の場所だって──ずっと、思ってきた」
優香の目がわずかに見開かれる。
だが、言葉はなかった。
ただ、そっと侑斗の手を取る。
──その瞬間、船が微かに震えた。
コンソールに変化が現れる。
波形が反転し、空間構造が崩れ始める。
「……来た。クァンタム・セルの“岸辺”だ」
侑斗が立ち上がり、優香もそれに続く。
船体の前方に、薄い光の亀裂が走る。
それはまるで、空間そのものが意志を持ち、裂け目を開き始めたかのようだった。
その向こうに何があるのか──誰にも分からない。
けれど、それは確かに、“記録”と“未来”すべての外側に存在する場所だった。
「行こう。──まだ、終わってない」
「うん」
二人は、手を取り合って進んだ。
──船をようやく降りる。
量子船は、二人が降りた途端、砂のように崩れ落ちていった。
船も、航路も、もう必要なかったのだ。
外の宇宙へと繋がる“窓”は、確かに開いていた。
どこまでも広がる、静かな、無限の世界。
そして、ここからすべてが始まる。
侑斗が、かすかに笑う。
「──後は、亜希さんを呼ぶだけだな」
優香も、小さく応じた。
「うん。……ようやく止められる。
銀河の──反対側の腕から聞こえてくる、あの“悲鳴”を」
かつて誰かが仕掛けた歪みを、誰かが背負った叫びを。
いま、ここで終わらせるために。
──二人は、光の向こうへ歩み出した。