22、過去 幻霧行Ⅱ
霧が深く立ち込める道。冷たい灰色の靄が、世界の輪郭を曖昧にしていた。その中を滑るように進む車。そのハンドルを握る椿優香は、ふと現れた見知らぬ女性に一瞬だけ表情を曇らせた。
何? ここに入り込めるはずがない。
この道はベルティーナがカーディナル・アイズで創り出した、選ばれた者だけが通れる異界への抜け道。他者が迷い込む余地など、あるはずがなかった。なのに、この女はまるで当たり前のようにそこに立っていた。
優香はすぐに笑顔を作り、穏やかな口調で言った。
「とりあえず、車に乗って。まとめて位相操作ができるから。」
声には柔らかな響きを持たせたが、内心は波立っていた。この得体の知れない女が、何者なのか見極める必要があった。
エンジンが再び唸りを上げ、車は静かに霧の中を滑り出す。
「私の名前は椿優香。こちらは橘侑斗くん。霧に迷って、ちょっとした呉越同舟ってところね。」
優香は軽く肩をすくめ、バックミラー越しに亜希を観察した。表面上は冗談めかした軽い口調。しかし、その視線の奥には冷たい探査光が潜んでいる。
侑斗は一瞬、眉をひそめた。自分は優香に名前を名乗った覚えがない。それなのに、どうして……? だが、その疑念はすぐに霧のように薄れていく。ただの偶然、と思い込むことにした。
後部座席で亜希は静かに口を開いた。
「私は木之実亜希といいます。」
その声には、どこか場違いな静けさがあった。何もかもが非現実的な状況の中、淡々と名乗るその姿は逆に不気味だった。
──殴られ、無理やり連れてこられ、挙句に置き去りにされた。私はいったい、何をしたっていうの?
*『貴女は此処で彼を待つ』*──あの美しい女性はそう言った。彼って、前の席に座っているこの冴えない少年、橘侑斗のことなのだろうか?
亜希はじっと二人を観察する。優香と侑斗、その間に流れる微妙な空気。
長い付き合いではなさそうだ。しかし、この少年……優香に惹かれているのがすぐにわかる。
侑斗の視線は時折、優香に向けられる。その目には混じりけのない憧れと、説明のつかない引力が滲んでいた。しかし、優香はそれに気づいていながら、あえて無視するかのように軽く受け流している。いや、無視しているのではない。コントロールしているのだ。まるで遊んでいるかのように。
この女、ただ者じゃない。
亜希はさらに気づく。優香がハンドルを握るその手には、どこか不自然な余裕があった。まるでこの霧の中で道を「見ている」のではなく、「創っている」かのように。
確信が胸を打つ。
この人は道を進んでいるのではない。道そのものを作り出しているんだ。
その証拠に、侑斗は外の景色をまったく認識できていないようだった。カーブに差し掛かるたびに体がぎこちなく揺れる。恐怖を隠すためか、侑斗は無意味な会話で空気を埋めようとしている。
「でも、世の中に完璧なものなんてないし……」
「それは君の意見だよね? 特定の人たちには、完璧な存在があるんだよ。少なくとも、その人たちにとってはね。」
優香は柔らかく、しかし侑斗の言葉を巧みに打ち消していく。その声は、まるで綿菓子のように甘く、しかし触れれば消えてしまう不安定さを孕んでいた。
「宇宙の96%が測定不能って、人間原理が間違ってるって証拠ですよね。」
「ふたつの暗黒を突き止めようとする人の努力を、君は否定するのかな?」
「人間の意識は目に見える実体だけでは説明できないですよね。」
「目に見えるものだけで、説明できるものなんて私には想像もつかないよ。」
優香の言葉は反論ではなかった。ただの反響音であり、侑斗の言葉を意味のないものに変えるだけの空虚な同意。それはまるで、相手の存在をゆっくりと侵食するかのような知的なゲームだった。
亜希はそれを冷静に見ていた。ああ、これはただの逆説論法。こんなこと、私にもできる。
なのに、侑斗は優香に惹かれている。彼女の言葉に、彼女の存在に、どうしようもなく。
心が痛くならないの? それとも、真性のドM?
イライラが胸の奥で膨れ上がる。とうとう口を開いた。
「あのー、助けてもらって、乗せてもらって本当に言いにくいんだけど……二人とも、その鬱陶しい会話、やめてもらえない?」
沈黙。車内に張り詰めた空気が、ふっと緩む。
優香は一瞬だけ、目の奥に冷たい光を宿した。しかし次の瞬間には、再びあの完璧な微笑みを浮かべた。
「そうだね、遊びの時間は終わり。」
彼女はブレーキを踏み、ハンドルを切る。白い靄が薄くなると、広々としたアスファルトの駐車場が姿を現した。その先には、朽ちかけたような小さな建物がポツンと佇んでいる。
「終着点だよ。あなたたち、しっかりと目を開けて見ておきなさい。この世の終わりの終着点を。世界が壊れる様をね。」
優香の声は、まるで呪いのようだった。その瞳の奥に、亜希が見たもの──それは恐怖でも憎悪でもなく。
脅威。
優香は、亜希という存在が自分の世界に入り込んできたことを、確かに警戒していた。しかし、それを表に出すことは決してしない。彼女は自分が常に支配者であると信じている。