235、未来 まだ、答えを置いていかない
──海が、静かになっていた。
量子船は、深層へと進んでいる。
もはや揺らぎも波もない。
空間は、完全なる沈黙に包まれていた。
それは、まるで──“世界の胎内”だった。
言葉も、色彩も、感情すら通用しない、無の階層。
優香と侑斗の乗る量子船は、視覚という概念すら崩壊した透明な空間を、ゆっくりと進んでいた。
「……ここは?」
侑斗が目を細める。
船の外には何もない。
だが、確かに“存在感”だけはあった。
呼吸するような空気の律動。
思考の輪郭をそっと撫でる、微かな知覚。
「誰かが──私たちを見てる」
優香が、微かな震えと共にそう呟いた。
その瞬間、空間の一点に、ぼんやりとした“焦点”が生まれる。
光でも闇でもない、存在そのものの濃縮。
凝縮された意志が、そこに立ち上がった。
現れたのは、これまでの創造者たちとは異なる気配を持った影だった。
その姿は、不完全だった。
人間のようでありながら、完全には人間ではない。
輪郭の奥にどこか懐かしさが滲むのは──彼が、かつてベルティーナの傍らにいた有城龍斗に似ているからかもしれなかった。
『──再構築とは、罪か。それとも希望か』
影が、問うた。
言葉ではない。
直接、脳裏に響く情報の波。
優香も侑斗も、目を逸らさなかった。
「……あなたは?」
優香が静かに問う。
『名は不要。私は“世界の調整者であり傍観者”──お前たちと対話するために今だけ創られた、現在の階層からは除外された存在だ』
影は、自らを“傍観者”と名乗った。
世界を再構築する資格も、破壊する権限も持たぬ、創造者から外れた存在。
「なぜ、私たちの前に現れたの?」
優香がさらに問いかける。
『干渉の限界点。おまえたちがいま触れようとしている“最後の構造”は、もはや我々にも手出しできぬ。──だが、ただ一つ、伝えられることがある』
沈黙のなか、影はゆっくりと語った。
『我らより遥か高みに存在する銀河の階層。そこにいる者たちは、おまえたちの行いによって、この階層を調整する技術者を階層移動させる決断をした』
優香と侑斗は、息を呑む。
『我らが下層世界へ干渉してきたことが、銀河全体に歪みをもたらしていることは、既に知られていた。
だが──彼らはおまえたちの側につくわけではない。
我らの干渉、おまえたちの量子世界への接触──より危険と判断された方が、削除されるだけだ』
『この記録に満ちた量子の海も、本来はおまえたちの階層を銀河の腕から切り離すための隔離だった。
だが、我らのやり方は結果として、おまえたち自身の量子干渉能力を高めるだけだった』
侑斗が歯を食いしばり、声を上げる。
「……なぜ、そんなやり方しかできなかったんだ?」
影はわずかに空間を揺らし、応えた。
『おまえたちは、時の流れを連続するものとしてしか捉えられない。
我らにとっては、過去と未来は区別のない平面。
時間の上を、調整という形で滑るように移動してきた。
──その違いを、言葉で説明する術はない』
侑斗は目を見開いた。
理解できない。
だが、それでも直感する。
もし彼らが本当に過去と未来を同一視してきたのなら、なぜ今という瞬間に、彼らは階層から追放されるのか──。
世界そのものが、崩壊ではなく、“解釈不能”という形で壊れ始めている。
「……それで」
優香が、かすかな震えを隠しながら問う。
「あなたたちが去った後、このクァンタム・ワールドはどうなるの?
あなたたちが創った仮想膜に浮かぶ、地球の人々は?」
影は、しばし黙した。
そして、答えなかった。
ただ、その輪郭は哀しみを滲ませた。
『──最後に、ひとつだけ問う。
おまえたちは、この旅を終えた後、何を選ぶつもりなのか』
問いは、重く、深く、ふたりの心に突き刺さった。
優香も侑斗も、すぐには答えなかった。
ただ、静かに、互いを見つめ合った。
この旅の終わりが、“帰還”ではないことを──
もう、二人とも理解していた。
──それでも。
「……まだ、その答えをここに置いていきたくない」
優香が静かに言った。
侑斗が、ゆっくりと微笑み、頷く。
影は、それを見届けると、そっと消えた。
空間の揺らぎも、再び静かに沈んでいく。
量子船は、創造者なき後の海を、なお深く──
次なる層へと進み続けていた。