234、未来 新たな筆をとる者
風が吹いていた。
それでも先ほどまでの激しさに比べれば、ずっと穏やかだった。
ここは、南半球にある標高三千メートルを超える高山の頂に近い場所。
木乃実亜希は、ただひとり、ソロキャンプをしていた。
重量三十キロを超えるキャンプ用具を自力で運び、組み上げ、今はローテーブルの上に置いたランタンの火で湯を沸かしながら、零のように静かに紅茶を嗜んでいる。
──パリンゲネシアにいた頃、史音に「ゴリラ女」なんて呼ばれたけれど。
まあ、普通の人間からすれば、確かにそう言われても仕方ない、と亜希は苦笑し、ため息をついた。
史音──
日本を離れる前、彼女は最後にこう言った。
「南の方、特に夜空が見えるところには絶対に行くな。引っ張られるから」
その忠告に、あえて逆らった。
よりにもよって、銀河の中央が真上に昇るこの地を選んだのだ。
──まあ、天邪鬼で策士な史音のことだ。
むしろ、そう言うことで亜希を南半球へ向かわせるつもりだったのかもしれない。
史音は「ラスト・ライブラリ」の”原始回帰計画”を止めると言い残し、姿を消した。
あれから──もう一週間が経つ。
世界はどうなっただろう。
科学の痕跡すら失われ、荒野と化しているのか。
もし、山を下りたら──人々は皆、原始人のように暮らしているのだろうか。
そんな想像をしているうちに、風が完全に止まった。
それは、音もなく訪れた静寂だった。
──木乃実亜希。
零がかつて自らの後悔から、「愛を信じない自分」を切り離して創った存在。
南半球、クァンタム・セルの窓に転移創造された、
この地上で唯一、“再構築”の可能性を抱える二十五歳の作家。
彼女は、ただ静かに空を見上げていた。
雲ひとつない空。
ここでは空は深いコバルトブルーに染まり、そこに幾つもの巨大な地球の映しが浮かんでいる。
時刻は──現地時間の夕方だろうか。
やがて、空に浮かんでいた幻影の地球たちが、一つ、また一つと淡くなり、弾けるように崩れていく。
──史音の言ったとおりだ。
あれはラスト・ライブラリが創り出した幻影だった。
幻影が消えた空は、やがて黄昏に染まり、薄明、天文薄明へと移ろっていく。
そして、地平線の端から、天の川の影が昇り始めた。
その瞬間、亜希の背中を冷たいざわめきが駆け抜けた。
──前から不思議に思っていた。
たとえ北半球の真冬でも、銀河は昼間、空の向こうに存在しているはずなのに、なぜ昼間には“銀河の声”が届かないのか。
史音の推測では──
銀河中心の「発信窓」の周期性と、亜希自身の深層意識との同期が、夜にしか起きないのではないか。
けれど、本当のことは誰にも分からない。
亜希は、ここで待つ。
誰に頼まれたわけでもない。
これまで──
零に守られ、仲間たちに救われ、ただ自分のあり様を探してきた。
でも、今は違う。
自分の意思で、世界の改変に関わろうとしている。
──そう、やっとここまで来たのだ。
亜希は知らず、手を胸に当てていた。
「……私に、できるの?」
誰に問うでもない、か細い呟き。
空は答えない。
ただ、風のような何かが、彼女の足元をかすめていく。
そのとき──
空間の歪みが、ほとんど音もなく、亜希の周囲に現れた。
構造が乱れている。
この場所はかつて、ラスト・ライブラリが監視していた地域。
だが今、そこには微かな“接続の痕跡”が残っていた。
──亜空間の逆流。
それは、優香と侑斗が量子の海に踏み込んだことで生じた、波の“残響”だった。
「……誰か、近くに──いる?」
亜希がつぶやくと、歪みの向こうに一瞬、光の影が浮かんだ。
それは、誰かの記憶。
あるいは、誰かの意志。
だが、はっきりとした形にはならない。
「貴女はまだ、“人間”でいられますか?」
どこからか、声がした。
それは、亜希に似た別の誰かの声──
過去の自分か、未来の自分か、それとも単なる反響か。
亜希は、迷いながらも答えた。
「……わからない。……でも、それでも……」
そっと手を伸ばす。
光が、亜希の指先に触れ、やがて消えていった。
「私はまだ……あなたたちの物語を、見ている。
終わりじゃない、って──信じたいから」
けれど今は、もう誰も導いてはくれない。
だったら、自分が。
「──私が、書くしかないよね」
亜希は静かに、けれど確かな足取りで、輪の中心へと歩みを進めた。
物語が、ゆっくりと、しかし確かに──
終わりに動き始めていた。