232、未来 迫る宿命を撃て
量子船の周囲に広がる“海”が、音もなく崩れ始めていた。
──いや、正確には、音そのものが存在しないこの空間で、“何か”が静かに降りてきていた。
船を取り巻いていた螺旋状の情報の流れが、不意に停止する。
その代わりに現れたのは、いくつもの歪んだ光の柱だった。
それらはまるで見えない重力の核であるかのように空間を引き寄せ、
時間の連続すら軋ませながら、船の前方に一つの“場”を創り出していく。
そこに、姿を現した。
──人の形を模した、幾体もの影。
だが彼らは顔を持たず、
身体は知識と記憶の残滓だけでかたどられた曖昧な像だった。
まるで──誰かに一度だけ観測された存在の、かすかな再生映像のように、
その輪郭は揺らいでいる。
侑斗は息を呑み、無意識に優香の前に出た。
手は剣の柄に触れたまま、硬直する。
この空間全体に満ちる、冷たく乾いた圧力が、皮膚を、骨を、心を圧迫してくる。
「……創造者?」
彼の喉から漏れた声は、かすれていた。
そのとき、最も大きな影が一歩を踏み出す。
揺れる身体から、言葉とも情報ともつかない“音”が放たれた。
『観測された存在たちよ。なぜ、下層よりここへ至った』
それは言葉ではなかった。
だが、侑斗と優香の脳裏には、直接意味だけが刻みつけられる。
『我らは、この世界を定めた者。
生の流れを観測し、記録し、再配列するもの』
『おまえたちは、定義されぬ未来を運ぶ異物。破滅の種である』
「……破滅だって?」
優香の胸に、ふっと熱いものが燃え上がる。
同時に、彼女は不敵に微笑んだ。
怒りを、迷いを、すべて熱に変え、冷たく告げる。
「その通りだよ。──私たちは、あなたたちに“破滅”をもたらすために、遥か下の階層からここへ来た」
その声は静かだったが、確かな刃のような意志が滲んでいた。
「本来、下の階層が上の階層に直接手を加えることは、禁忌だった。
だから、私たちはずっと、薄い層を一歩ずつ、染み渡るように昇ってきた」
『ならば、なぜ禁を破った?』
「──あなたたちが、先に階層を超え、私たちの世界に手を加えたから。
そして、間違えたからだ」
『間違いなど存在しない。すべては最適化された結果である』
別の影が答える。
その声は冷たく、絶対的な確信を持っていた。
侑斗が一歩、前へと踏み出した。
その瞳には、静かな怒りが宿っている。
「最適化……?
違う。
お前たちはただ、“人間の知成力”を恐れたんだ。
人間はお前たちみたいに直接ミクロの世界をいじったわけじゃない。
だけど、進化の過程で、量子世界と現実を結びつける力を手に入れた。
それが、お前たちの階層に影響を及ぼすことが、怖かったんだろ?」
その瞬間、空間に響く光が一斉に収縮した。
影たちの輪郭が鋭利に尖り、殺気のような震えが空間を満たす。
『──境界を越えた時点で、おまえたちは消去対象となる。戻れ。さもなくば』
「なら──」
優香が低く告げる。
「こっちも、決めるしかない」
彼女は腰の《クリアライン・ブレイド》を抜き放った。
刃は音もなく輝き、空間そのものを結合から外す力を宿している。
侑斗もまた、静かに《クリスタル・ソオド》を抜いた。
──無限の可能性を断ち切り、存在すらなかった未来を選び取る刃。
二本の剣は、この量子空間に合わせて、より抽象的な“概念の刃”へと変質していた。
それは──夕子から受け取った《銀河の声》による、同調の証だった。
優香と侑斗の視線が交錯する。
交わした言葉はない。
だが互いに、すべてを理解していた。
──誰かに決められた運命など、初めから従う気などない。
「行くよ、侑斗」
「ああ。世界を──切り開くんだ」
次の瞬間、二本の剣が振るわれた。
世界を縛っていた光が、裂ける。
閃光は、記録という名の神々へ向かって、明確な拒絶を叩きつけた。