230、未来 還りなき旅路へ
夕闇に包まれた地平線の彼方で、かろうじて灯る都市の光が、微かな命のように瞬いていた。
かつて、世界を照らしていた科学の輝きは完全には失われていない。だが、その光は今や曇り、滲み、文明の記憶ごと擦り切れていた。人々の手に残されたのは、奇跡の残響のような技術の断片だけだった。
原始回帰計画――それは寸前のところで停止された。
ラスト・ライブラリの崩壊、そしてセレナの静かな決断によって、地上は「完全なる無知」へと堕ちることを免れた。
それでも、文明の後退は避けられなかった。
通信網は機能を止め、輸送技術は崩壊し、医療も科学も、あらゆる恩恵が奪われていった。
優香は思う。
この傷を癒やすには、もう一度、未来を創りなおせる者が必要なのだと。
史音も同じ結論にたどり着いていた。
──亜希こそが、その鍵だ。
今、残されたすべての希望が、一隻の船に託されようとしていた。
量子船。
太陽の繭の構造をもとにした、小型で可動式の亜空間層航行体。
量子の海を横断するために設計された、人類最後の船。
「夕子の記憶データを優香と侑斗に同期させる。それが、航行の絶対条件だ」
史音の低く落ち着いた声が、静かな研究室に響いた。
その言葉に、パルドフは深く頷く。
彼の眼差しは、科学者としての責任と、失われた信頼を取り戻すという覚悟に満ちていた。
アリシアは無言で機材を操作している。指先が淡く光るコントロールパネルを滑り、夕子の脳波データが最終段階に到達した。
「この船に宿るのは、夕子が命をかけて守った未来の断片よ。……あの子の痛みも、祈りも──全部、ここに」
アリシアの声が、微かな震えを含んでいた。
セレナは言葉を発さず、船体の中央にある情報伝達層にそっと手を添える。
その瞳を閉じ、まるで祈るように、彼女は静かに口を開いた。
「……これが、私の最後の支援。あの海には、もう私は関われない」
量子船が鼓動するように光を放ち始める。外郭の薄膜が淡く波打ち、繭のように回転を始める。
中央には、出発の時を迎えた二人の姿があった。
「それじゃあ、行こうか、優香」
侑斗が優しく声をかける。その顔には覚悟が刻まれていた。
「……ああ、そうだね。今度こそ、私たちの長い旅が終わる」
優香は静かに頷き、侑斗と共に繭の中心部へと体を沈める。
手と手が重なり合い、優香の手がわずかに震えた。
それは恐怖ではなかった。
責任と、そして最後までやり遂げるという強い意志の震えだった。
刹那、船の先端から一本の光の筋が伸びる。
空間が裂けるように砕け、夜の静寂を切り裂いて、新たな航路が開かれた。
量子船は、音もなく、その裂け目の中へと消えていった。
──残されたのは、微かに揺らめく光と、深い沈黙だけだった。
しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。
その静寂を破ったのは、パルドフだった。
「……フミネ。彼らが何をしようとしているのか、私にも理解はできる。だが……彼らが地上に戻ってくる可能性は、あるのか?」
史音はうつむいたまま、しばらく沈黙していた。
そして絞り出すように言った。
「ああ、先生……。あの二人は、もう私たちの元へ帰ってくるつもりはないんだ」
その瞬間、夕子が崩れ落ちる。
「……どうして? どうして……? 誰も犠牲にしないって……そう言ってたのに……!」
彼女の泣き叫ぶ声が、夜の空間に突き刺さる。
その言葉は、まるで約束が破られた子どものような、純粋な悲しみだった。
史音もまた、そっと目を閉じ、肩を震わせながら涙を流していた。
セレナが一歩、前に出る。
その顔にも、静かに涙が伝っていた。
嗚咽はない。声も出さない。ただ、透明な痛みがその頬を伝っていた。
「──あの二人は、自分たちの場所へ戻るのよ」
その声は、あまりにも静かで、誰の胸にも深く染み込んでいった。
そして、闇に溶けるように、その言葉は消えていく。
残されたのは、消えた光の残像と、胸を裂くような静けさだった。