229、未来 あなたの為の記憶
波止場に、誰かの足音が響いた。
崩れゆく空間の中で、その足音は不釣り合いなほど静かだった。
空間はまだ、夕子の「銀河の声」によって辛うじて保たれていた。彼女が自身の生命を代償として展開した多層防壁。それは今や音を立てて軋み、今にも崩れ落ちそうな薄氷のように脆くなっていた。
夕子は量子船の前で膝をついていた。髪は汗と埃にまみれ、唇は乾ききっている。かすかに開いた目は焦点を持たず、虚空をさまよっていた。
「……まだ……誰も来ない……でも……私は……信じてる……」
か細い声が、重力のないような空間に淡く溶けた、そのとき──
「……夕子!」
遠くから、誰かの声が響いた。切迫と安堵が混じった声。それは侑斗だった。
傷だらけの身体を引きずるように、彼は駆け寄ってきた。荒く肩で息をし、焦りを隠せない表情で、夕子に手を伸ばす。
その背後には、史音がいた。顔に血の筋、焦げた服、抱えている装置は半壊していたが、彼女の瞳だけは鋭く、意志に満ちていた。
パルドフがその姿を見て息を呑む。
「フミネ……一体何が起こっているんだ?」
「パルドフ先生、久しぶりだな。……でも、話してる暇はない」
史音の声には、かつて教えを受けた者の面影と、それを越えた確信があった。
夕子は、パルドフとアリシアの前に張っていたフィールドを静かに解除する。侑斗がその手をしっかりと握りしめた。
「遅くなってごめん。でも、もう大丈夫。……もう、ひとりじゃない」
史音はすぐさま量子船の制御パネルに装置を接続し、素早く手順を進めていく。
「残されたエネルギーはギリギリ。でも、まだ動かせる……外殻を安定させるには、侑斗と優香の生体信号が要る。……アイツ、何やってんだよ……」
「……出来ることから始めようぜ」
侑斗が静かに言いかけたその時、突如、波止場の天井が轟音を立てて崩れた。
閃光が空間を照らし、その中から──誰かが落ちてくる。
「……優香!?」史音が息を呑む。
光の中から姿を現したのは、埃まみれの服と傷だらけの肌、それでも剣をしっかりと握る女──優香だった。
「……やれやれ。どれだけ急いだと思ってんのよ」
息を切らしながらも、彼女の背筋は真っ直ぐだった。そして、その隣に──透けるような光をまとう神秘的なセレナの姿があった。
すでにその輪郭は朧で、肩はまるで霧のように揺らいでいた。
「……優香……」
夕子の目に、はじめて色が戻る。それは喜びでも感動でもない。安堵だった。
「セレナが、私をここまで送り出した。何も言わなかったけど、全部──背負ってた」
優香の声には、誇りと哀しみが入り混じっていた。
「でもちゃんとセレナも連れてきたじゃないか。……やっぱり、優香はすごいよ」
侑斗の言葉に、優香は少しだけ目を細めて頷く。
夕子は泣きながら、優香にすがりついた。
「……ごめんね、優香……私、怖かったの。ほかの姉妹みたいに、“消えちゃう”んじゃないかって……」
優香は静かに、でもしっかりと夕子の肩を抱きしめた。
「馬鹿。私が来たからには、誰も消させない。……絶対に」
その時、パルドフとアリシアの叫びが響いた。
「ラスト・ライブラリの崩壊速度が異常だ! もう……持たない!」
史音が冷ややかな声で言い放つ。
「だったら黙って。今、救うべきは“未来”じゃない。“人”だよ。……科学者なら、その終わりぐらい静かに見届けろよ」
そして、空間が激しく揺れた。
量子船の周囲を除き、ラスト・ライブラリ全体が音もなく崩壊を始める。壁が、天井が、知識の結晶が──次々と砂のように溶けていく。
その中心で、セレナの姿が限界を迎え、霧のように揺らぎ始める。
「セレナ……!」
優香が叫んだ。そして、剣を抜き放ち、その刃先をセレナに向ける。
「優香、やめろ!何をするつもりだ!」史音が制止する。
「クリアライン・ブレイドで、セレナとラスト・ライブラリの結合を断つ!」
だが、史音は一歩踏み出し、静かに首を振る。
「……物理的対象以外には、剣の力は届かない。あれは“世界”を断つ剣。想いを……人を救うものじゃない」
優香の手が震えた。
剣は一筋に弧を描いた。けれどもセレナの姿が霧のように溶け──静かに消えていった。
そして……
残されたのは、空間に舞い降りる一冊の本。
『貴方のための記憶』
そのタイトルが刻まれた本を、優香は震える手で拾い、胸に抱きしめた。
涙が溢れてきた。流したいときには流せばいい。侑斗とそう決めていたから。
けれどその胸の奥で、何かが確かに、音を立てて崩れていった。
──そして。
「……泣くなってば」
背後から、あまりに懐かしい声が響いた。
優香が振り返ると、そこに立っていたのは──
透けることのない、完全な人間の肉体を持ったセレナだった。
彼女は微笑んでいた。これまでのどこよりも、柔らかく、あたたかく。
「図書館は終わった。でも、“私”は終わらない。だってこれは──“あなたの物語”の中にいる私だから」
その瞬間、量子船が目覚めた。
その鼓動は、知識を集積するためのものではなかった。
それは命を繋ぐための音。希望を連れてゆく、最終の旅の始まりだった。