228、未来 その願いは届かない
知識の粒子が、静かに雪のように舞っていた。空間全体に、崩壊のざわめきが満ちる。ひび割れた書架の隙間からは、淡い光が漏れ出し、まるで図書館自体が最後の呼吸をしているようだった。
その中心に、セレナは佇んでいた。
肩がほんの少し透けている。身体の輪郭は、まるで空間そのものと同調するように揺らぎ、彼女が“存在”と“施設”の境界に立つ者であることを無言のうちに物語っていた。
「私は“図書館”なの。ここに繋がっている限り、私が破壊されれば、“ここ”もまた消える。それは、仕方のないこと……」
セレナの声は穏やかだったが、そこには長く押し殺してきた想いが滲んでいた。
「私がこの話を最後まで言わなかったのは……あなたたちに、選ばせたくなかったから」
その言葉に、優香の足が止まった。
「選ばせたく……なかった?」
唇を噛みしめるように、優香が問い返す。
「私を選ぶのか、夕子を選ぶのか。そんな選択……無意味でしょう?」
セレナの声に、どこか諦めに似た優しさが混じっていた。
その瞬間、頭上から天井が崩れ落ち、黒く裂けた空間が大きく開いた。そこに現れたのは──無数の“地球”。
青く輝く惑星、赤く染まった世界、砂漠に覆われた滅びの星──どれもが現実と見紛うほどに精緻で、美しかった。
「……空に浮かぶ地球たちが、消えかかってる……」
優香が、息を呑むように呟いた。
セレナが少し微笑んで答える。
「ラスト・ライブラリが映していた幻影よ。あれが映っていれば、“科学者はまだ必要だ”って人々は思うから。記録でも予測でもない、ただのイメージ──笑っちゃうでしょう?」
彼女の言葉に合わせるように、空の地球たちは一つ、また一つと崩れていく。光の粒となって風に溶け、音もなく消えていった。
「もう、映す理由がなくなったの。だから、消えていく。図書館も、私も──同じ」
セレナが、ゆっくりと優香に歩み寄る。輪郭の揺らぎが強まり、肩は半透明になっていた。
「私は……あなたに助けてほしかった。でも、それは望んじゃいけないことだった」
「どうして……!」
優香の叫びが空間に響いた。胸の奥から溢れ出す怒りと哀しみで、声が震える。
「なんで、貴女がそんな風に、自分の価値を決めるの!」
セレナの瞳が静かに優香を見つめ返す。
「私は、あなたと違って“物語の外”にいたものだから。でも……あなたの隣にいた時間だけは、本物だった。ずっと、そう思ってる」
ふたりの間に、深い沈黙が落ちた。崩れていく空間の音だけが、遠くに響く。
「……最後に、お願いがある」
セレナが口を開いた。
「……嫌だ。私は誰の最後の願いも聞かない」
優香が即座に返す。震える声の奥には、もう何度も“別れ”を繰り返してきた彼女の怒りがあった。
「この扉の先に、空間圧縮転移装置がある。そこから脱出すれば、夕子のいる波止場まで直接行ける。……使って」
「……じゃあ、あんたは?」
セレナは、穏やかに微笑んだ。それは初めて見せるような、毒のない、柔らかな笑顔だった。
「私は、図書館として残る。最後の管理者として。でも──あなたが船に乗る瞬間までは、絶対に消えないって、そう決めてるの。だから……行って」
優香は、一歩だけ前に出て、剣を下ろした。
「……ふざけてるの? 貴女も行くんだよ。私と一緒に──夕子のところへ」
その瞬間、セレナの目が大きく見開かれた。驚きと、なにか遠い希望のような光が、その奥で揺れた。
そして──
優香の背後で、淡く輝く光が花開く。
相転移結晶能力が静かに発動し、セレナの自己破壊プログラムのコードへと、優香の意志が割り込んだ。
剣は振るわれなかった。代わりに、暖かな光がセレナの背中を優しく包み込む。
「私は“選ばない”。どっちかなんて、決めたくない。両方助ける。それが、私のやり方だよ」
空の幻影はすべて消え去り、静けさの中に──たったひとつの“現実”だけが、確かに残っていた。




