227、未来 知識はなぜ遺されるのか
中央中枢演算領域──
そこは、かつて“ラスト・ライブラリの心臓部”と呼ばれていた。
だが今、その心臓は音もなく崩れつつあった。
天井から垂れ下がる知識の繊維は、次々にちぎれ、裂け、色彩を失っていく。
漂う記録の粒子たちは、熱でも重力でもない、もっと得体の知れない“何か”に揺さぶられていた。
「……あと三回。三回斬れば、完全に演算は停止するわ」
セレナの声は変わらず冷静だった。論理的で、強く、凛としていた。
けれど優香には、それがどこか遠くから響いてくるように感じられた。
「セレナ……あなた……」
「言わないで」
セレナは優香の言葉を遮った。
その瞳には、あまりにも透き通った静けさが宿っていた。
「私はあなたたちのために動いている。それ以上でも、それ以下でもない」
「違うでしょ……!」
優香の声が、堪えきれずに上ずる。
「私が、あなたがこの図書館と繋がっているって気づいてないと思ってたの? 斬れば斬るほど、あなたは……!」
「仕方ないじゃない、私は……そういう存在だから」
セレナはわずかに目を伏せて呟いた。
「仕方なくなんかない!」
その瞬間、別の声が割って入る。
「俺たちは、もう誰かの犠牲で何かを成し遂げるなんて、二度としないって誓ったんだ!」
振り返ると、そこには地下迷宮に向かったはずの侑斗と史音が立っていた。
驚きに目を見開く優香に、セレナが冷静な声で告げる。
「何してるの?早く行って。夕子を取り戻さなければ──」
史音が一歩前に出て口を開いた。
「ベルティーナの最終ログを確認した。……お前の設計ファイルまで、全部見た。セレナ──お前はこの図書館の自己保持機能そのものだ」
その言葉が空間に響いた瞬間、優香も息を止めた。
「図書館が崩壊すればお前は消える。逆に、お前が消えれば図書館の機能は完全に停止する。それがベルティーナが残した、最後の“切り札”だった」
沈黙ののち、セレナは静かに答える。
「それがどうしたというの? 私の役割は変わらないわ。図書館が停止する前に、量子船と夕子をあなたたちに渡す。そして“原始回帰計画”が完成する前に、私が消える──それでいい。優香、あなたの望みどおりになる」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
セレナは、初めて自分の意志として、そう告げた。
「私はこの時のために創られた。暴走するラスト・ライブラリを止めるための存在。でも──」
少しだけ、瞳が揺れた。
「でも、今は違う」
「何が……違うっていうの……?」
優香の声が、震えを含みながら絞り出される。
「私は……あなたたちに、出会ってしまったの」
セレナは微かに笑う。その笑みは、どこか切なく、どこかあたたかかった。
「それだけよ。だから……続けて。あなたたちは、世界の未来を背負っている」
けれど、誰も動かない。優香も、侑斗も、史音も、その場に立ち尽くしたままだった。
そのとき、天井から光の粒が降り注ぎ、セレナの肩にふわりと落ちた。
彼女の身体はゆっくりと、透けはじめていた。輪郭が揺れ、声が微かに遅れて響く。
「それなら……私がやる」
セレナは淡々と呟く。
「私の自己破壊プログラムは、自分で起動できるわ」
「やめて、セレナ……! 私はまだ、すべての可能性を試していない!」
優香が叫び、強くセレナの腕を掴む。
「止めない」
即答だった。
「あなたたちを、夕子のところへ届けるまで──私は、止まれないの」
──
その瞬間、演算領域にけたたましい警告音が鳴り響いた。
【警告:知識断絶が進行中。原始回帰計画が正式に起動されました】
「……あのバカども、ほんとにやったのか……!」
史音の声がかすれ、怒りと困惑が入り混じる。
「地上の科学施設が、ひとつずつ無力化されてる……これじゃ、図書館に集めていた知識も、もう……!」
「ラスト・ライブラリは、知識を守るために造られたのに……」
その言葉は、怒りというより、悲しみに近かった。
セレナが、静かに答える。
「彼らは“知識を持つ事の恐怖”に耐えきれなかったの。人々に怯えて、だから、“原始”に戻ろうとした。それが、彼らなりの論理……」
そして、ふっと目を細める。
「でも、私たちは違う。私たちは、最後まで“人の叡智”を守る側に立つ」
史音は言葉を失った。
目の前に立つセレナは、もはや“人”ではなかった。
それは、想いだけで立っている存在だった。
「行って。夕子を助けて──彼女はまだ、声を上げている」
セレナが、最後の力で微笑んだ。
「私は、ここで少しだけ時間を稼ぐわ」
「セレナ、お前……!」
史音の声は震えていた。
「お願い。私は──ここで、充分よ」
そのとき、図書館の壁が崩れる音がした。
それは、知識が壊れる音ではない。
誰かが、自分の全存在を懸けて、“想い”を貫こうとする音だった。
「侑斗、史音……夕子のところへ向かって、セレナは必ず私が救う」
優香が、静かに身を震わせながら言う。
そして、史音は走り出す。
その背に、もう一度セレナの声が届いた。
「ねぇ、史音。ひとつ、聞きたいことがあるの」
その声は、かすかに、けれど確かに届いた。
「人は……何のために、知識を残すの?」
その問いに、史音は答えなかった。
けれど、それでもセレナは、ほんの少しだけ笑った。
──その答えはきっと、これからの誰かが見つける。
彼女は、そう信じていた。