226、未来 図書館が呻いた日
図書館が、息をしていた。
……いや、あれは“呻き”だ。
金属のきしむ音。植物の蔓が軋む音。
そして、知識という名の書物たちが、棚の奥で微かに震えていた。
まるで今にも声をあげ、叫び出すのを堪えているかのように。
優香は黙って、セレナの背を追っていた。
その手には、青白く輝きを増す剣──クリアライン・ブレイド。
「“原始回帰計画”を止める? それって、そこまで重要なことなの?」
走りながら、セレナが振り返らずに問いかけた。声に冷ややかな棘が混じる。
優香は息を整えながら答える。
「重要だよ。ここに来てようやくわかった……ラスト・ライブラリの、本当の危険性が」
言葉に熱がこもる。
「もし“原始回帰計画”が完遂されたら、地上は──文明そのものが──石器時代以前に戻される。私たちの切り札、木之実亜希の周囲も例外じゃない。すべて、無に還るのよ」
少しの沈黙。
優香の脳裏に浮かんだのは、あの気高き女王──ベルティーナの姿だった。
(彼女は……この結末を予見していたのだろうか?)
だがセレナは頷くことも、反論することもなく、無言のまま歩みを続ける。
やがて、前方に仄かな灯りが滲み出てくる。
「対象、確認。中枢演算装置、反転結合中……」
セレナの声は、冷静というより、もはや機械のように淡々としていた。
「このユニットを外せば、演算が遅延する。再演算に数分はかかるはず。次の部屋で火力を集中させて」
「了解」優香は剣を握り直す。「斬るだけなら任せて。……あんたの言う通り、図書館が“繋がってる”なら──ここで揺らせば、どこかが崩れる」
息を一つ、優香は吐いた。
そして、無造作に剣を振り抜いた。
刹那、空間が裂けた。
物理的な断裂ではない。“世界に刻まれた結合”そのものが、無音のまま、切り離されていく。
──図書館が、震えた。
それは、明確な“苦痛”だった。
天井の光が瞬き、床が深く沈む。
「……っ!」
セレナがわずかに膝をついた。
その顔に苦悶はない。けれど目の奥には、“理解”の色がにじんでいた。
「どうしたの……? 貴女……存在が、薄くなってる……」
優香が駆け寄る。声に焦りが滲む。
「ええ……大したことじゃないわ」
セレナは微かに笑った。どこか遠い場所を見るような目で。
「次は、どこ? セレナ」
「……東棟第二記憶回廊。中枢に近いわ。あそこを斬れば、再構成は数時間遅れる」
「じゃあ、一気に行こう」
セレナは頷く。だがその背に、優香は微かな違和感を覚えた。
それは、“軽さ”。この空間の重力に逆らうような足取り。光をまとわぬ肌の影。
──彼女は、少しずつ世界から消えている。
「あんたの身体……どうなってるの?」
「くだらないことを気にしてる場合? それも貴女の“余裕”かしら」
言葉には毒があった。いつもと同じ。
けれど、その声はかすかに、震えていた。
──
二人は通路を抜け、次の回廊へと到達した。
そこには、一冊の巨大な本が開かれていた。
そのページには、地図のような模様が刻まれ、文字列が星の軌道のように浮かんでは回転していた。
「……これは、地上の科学拠点ネットワーク……?」優香が思わず呟く。
「ええ。全て、すでに“切り離し対象”になってるわ。原始回帰計画、正式承認ってところね」
「ベルティーナが創った最後の図書館を、侮辱したんだね。知識を集約した上で──それごと世界から剥奪する。……合理主義者がやることじゃない」
優香の剣が、静かに構えられる。
「止める。合理主義者の、非合理を」
クリアライン・ブレイドが空を裂く。
地図が浮かび上がり、破断する。
数百の軌道が光の霧となり、回廊が軋むような悲鳴をあげる。
そして──再び、図書館が呻いた。
そのとき、セレナの指先がわずかに透けた。
けれど彼女は、何も言わなかった。
──
その頃、図書館の最奥部。
無人の制御室では、ベルティーナの記録映像がひっそりと再生を始めていた。
「セレナ。……あなたがそれでも何も言わないのなら」
静かに、しかし確かな声で、彼女は語る。
「あなたの選択は、“無知なる者を救うこと”だったのね」
誰もいない空間に、その声はしんと響いた。
映像は、止まることなく、静かに流れ続けていた。