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225、未来 決意は静かに光る

それは、葛城夕子の予想とはまるで違う形で始まった。


深夜。冷たい空気が張り詰めた狭い部屋で、夕子は浅い眠りの中にいた。突然、耳元で、聞き覚えのある声がささやく。


――アリシア・ドールの声だった。


夢の残滓かと目を開けた瞬間、彼女がすぐそばに立っていた。薄闇の中、唇に指を当て、静かに告げる。


「チャンスが来たわ。今すぐ、量子船の波止場へ――地下迷宮に向かうわよ」


声は落ち着いていたが、その奥に確かな切迫感があった。


「どういうこと……?」


夕子は眉をひそめ、アリシアを睨むように問い返した。


「あなたの姉妹たちを犠牲にしてきたことに、ラスト・ライブラリの科学者全員が納得していると思った?私たちは違うの。パルドフ博士と、数人の仲間とで、別の方法を探してきた。あなたと世界、両方を救う道を。そして、ついに完成した。その計画を実行できるチャンスは――今しかないの」


彼女はそう言って、ベッドの脇に小さな鞄を差し出す。


「着替えを用意したわ。時間がない。急いで準備して」


夕子は戸惑いながらも、その目に宿る決意に押されるように、鞄を受け取った。



夕子がアリシアに導かれて廊下に出ると、壁の一部が外され、無骨なダクトがむき出しになっていた。日常では決して目にしない、施設の内臓のようなその光景に、彼女の胸がざわつく。


「こっちよ、早く!」


アリシアが身を屈めて、ダクトの中へと滑り込む。狭く、暗く、金属の冷たい匂いが漂うその空間は、まるで胎内回帰のような不気味さを孕んでいた。


夕子は、アリシアの真剣な眼差しに押されるように後に続いた。


金属板の擦れる音。手のひらに伝わる鉄の冷たさ。彼女は体を小さくしながら、ひたすら前へと進む。上下左右に折れ曲がる狭い通路の中で、方向感覚はすぐに失われていった。


「……こんなところから、本当に“漆黒の舟”へ行けるの?」


不安が口をついて出た。


「行けるわ。それしか道はないの。今、ラスト・ライブラリはAIによるトランス・プロテクトで外部からの侵入を阻んでる。知ってるでしょう? ラスト・ライブラリは“箱”の集合体。構造が常に入れ替わっていて、外からのアクセスを拒む迷宮になってる。でも、この経路だけは、唯一の例外なのよ。どれだけ構造が変わっても、ここだけは繋がってる」


夕子は小さく頷いた。息が苦しい。心臓の鼓動が、ダクト内の静寂にやけに大きく響いている気がした。


やがてダクトを抜けると、広い通路に出た。空気は一層冷たく、湿り気を帯びていた。


壁沿いを這うように、ぬるりとした風が吹き抜ける。天井の継ぎ目からは黒く濁った水滴が、時折ぽたりと落ちてくる。金属が軋む音が遠くから聞こえ、それはまるで、この場所そのものがゆっくりと呼吸を始めたかのようだった。


――ここは、長い間封印されていた場所。


夕子は直感的にそう理解した。


前方に、人影が浮かんでいた。


「あれは……」


見覚えのある姿。ここへ来て初めて会った科学者、パルドフ博士だった。以前よりも老いたように深い皺が顔を刻んでいる。だがその眼には、今までに見たことのない熱が宿っていた。


「来てくれてありがとう。忙しくてすまないが――もう、時間がない。そしてこのチャンスは、もう二度と来ない」


パルドフはそう告げた。


「……あなたたちは、何をしようとしているの?」


夕子の問いに、パルドフは真っ直ぐな目を向けた。


「君に説明する義務があるな。私たちはラスト・ライブラリの中でも、少数派だ。大多数の科学者たちは、君を“最後の器”としてしか見ていない」


「あなたたちも、私の姉妹に同じことをした……そうでしょう?」


その言葉に、パルドフは黙り込んだ。表情は凍りつき、返す言葉を失っているようだった。


代わりに、アリシアが言葉を継ぐ。


「……信じてもらえないかもしれないけど、パルドフ博士は、量子船の実験には一貫して反対してきたの。データが足りない、倫理的な検証が不十分だって。私たちもそうだった。あなたが自分の意志でここに来たと知った時、誓ったの。もう絶対に、あなたを犠牲にはしないって」


夕子は、それがまるで自分のことではないかのように感じていた。


(そんな約束――もっと早くにしてほしかった)


でも、過去を責めている時間はなかった。


パルドフは重い声で告げる。


「今、ラスト・ライブラリの中枢を支配しているのは“原始回帰計画”の推進派だ。彼らは科学を人々から剥奪してすべてを失わせようとしている。そして、彼らの今の技術力ならば可能だ。人類全体から科学の成果を奪い、世界を上書きする――その準備は、もう整っている」


夕子は息を呑んだ。


「なぜ……そこまでして、彼らは科学を否定しようとするの?」


パルドフの瞳が一瞬、遠いものを見た。


「……怒りと、悲しみだ。大衆はいつも感情の刃は自分達の武器だと思っている。我々には感情など無いと勝手に思い込んでいる。それは大きな勘違いだ。私たちにだって感情が有る。自分達の成してきた事をただ否定され、その挙句家族まで奪われた。彼等はそれほど科学を否定するのならば、望み通りそれを取り上げようと決めたわけだ。

彼らは“罰”を望んでいる。自分たち自身をも含めて、すべてを無に還そうとしている」


その言葉の重みが、夕子の心に静かに沈んでいった。


足元の石板に刻まれた古い記号が、じわじわと浮かび上がってくるような錯覚を覚える。


まるで、未来の破滅を警告しているかのようだった。


それでも、夕子の歩みは止まらない。


彼女は思い出していた――かつて、優香に命を救われた日のことを。




(回想)


夕子が初めて優香と出会ったあの夜――


まだ外の世界で、絶えず追われ、隠れ、生き延びることだけを考えていた頃。彼女は薄暗い路地の奥で、探索者たちに囲まれていた。


「おい、本当にコイツで間違いねぇだろうな? 万が一、一般人だったら俺たちが吊るされるぞ」


低く濁った声。もう一人が、冷え切った声で応じる。


「間違いない。“頭でっかちの木偶の坊”が探してる女の一人だ」


「くれてやるには惜しいな。どうせ最後は死ぬんだ、別に手足がなくてもあいつらにとっては困らねぇんだろ?」


夕子は全身が凍りついたように動けなかった。声を出すこともできず、ただ心の中で叫んだ。


――いっそ、殺して。


その瞬間、銃声。赤い飛沫が、視界を染めた。


けれど、それは夕子の血ではなかった。


彼女の前に、誰かが立ちはだかっていた。全身に銃弾を浴びながらも、なお両腕を広げて夕子を庇うその姿――女だった。


「なんだコイツ……イカれた女か? 一般人かもな」


「だったら始末して、どこかに埋めるだけだ」


続けざまに響く銃声。しかし次の瞬間、銃弾はすべて地面に落ちた。


「悪い奴らだね。レイやベルだったら、もう1000回くらい殺してるよ」


座り込んだまま、女は不敵に笑い、血をしたたらせた指をぴんと立てる。


背後から、若い男の声が響いた。


「お前らみたいなのがいるから、男全体の評価がどんどん下がるんだよな」


少年のような顔の男が、手にした杖で二人の頭を一撃した。銃を持っていた探索者たちは、何が起きたかも分からぬまま崩れ落ちた。


「水落移動、上達したね」


女が立ち上がる。血を浴びたはずの身体には、すでに傷一つ残っていなかった。


「葵瑠衣の力は高分子結晶能力。……もう傷は消えたよ。あなたの知ってる、綺麗な身体に戻ったでしょ?」


男――侑斗は苦笑しながら、深いため息を吐いた。


「それでも……痛かっただろ。どうして、そんなやり方しかできないんだよ」


夕子は、その時、はっきりと見た。


自分とは違う。痛みに耐え、何かを守るために立ち上がる、優香の“矜持”を。


そして心の奥底で、小さな決意が芽生えた。


――いつか、自分もこの人たちのために何かを成そう。


(回想終わり)



「……ここだ」


パルドフの声で、夕子は現実に引き戻された。


目の前の空間が音もなく開き、巨大なドーム状の空洞が姿を現す。その中心に、銀白のカプセルが宙に浮かんでいた。


まるで、月の欠片を削り出したような舟。滑らかな曲線、柔らかくも鋭い光沢。まわりの空間は、まるでその存在を包むためだけに設計されたかのように見えた。


夕子は、立ち尽くす。


(知ってる……この舟)


夢の中で、何度も見た。救いを待ち続けていた船。閉じ込められ、呼ばれ、誰かを待っていた――。


それは、夕子自身だったのかもしれない。


「これが……量子船」


「あなたのために存在する舟よ」


アリシアの声が、ドームの中に反響して静かに届く。


「この船は、外の世界の技術とは根本的に違う。動力は、“情報の波”。科学でも魔法でもない、意志と記憶、そして選択で動くの」


夕子の手が、わずかに震えた。


ただ、姉妹たちのように消えることを恐れていた自分が、今ここに立っている。


「……私にできるの? 本当に……」


その問いに、誰も答えなかった。


だが、パルドフがそっと歩み寄り、静かに口を開いた。


「私たちは、ずっと君を待っていた。表向きはラスト・ライブラリに従っていたが……裏では、この瞬間のために、全てを偽装してきたんだ」


夕子の心がざわめく。


「私がこの船に乗れば……本当に、地球を救えるの?」


「そうだ。この地球を他の仮想世界から切り離し、君は戻って来られる。約束しよう」


パルドフの言葉に、夕子は静かに頷く。


「……でも、“原始回帰計画”は?」


「止まらない。最後にはこのラスト・ライブラリ自体も崩壊する。私たちは、“君を救う”方を選んだ。人々は科学を自ら否定した。だから、彼らは過去へ、石器時代以前に戻るしかない。だが、この地球自体は、君によって守られる」


夕子は、銀白のハッチに手をかけた。


その内部は、まるで母の胎内のようだった。柔らかな光。温かな空気。だが、同時に“戻れない場所”でもある。


(優香……侑斗……)


ふたりの顔が脳裏に浮かぶ。


夕子は目を閉じ、静かに誓った。


(――ここを守る。彼らが辿り着くまで、私はこの場所を渡さない)


たとえ命が尽きようとも、この船を手放さない。


「……銀河の声よ、私に力を」


囁くような声が空間を震わせた。


量子船が淡く発光し始め、周囲に白い防壁が展開されていく。多層の波が重なり、夕子と船を包むように光が広がっていく。


「真空エネルギーは……使えない。なら、私の身体を使えばいい」


青白い光が波止場を満たす。そして、その全体を覆うように、厚く、層を重ねた防壁が形をなしていった。


――誰にも、ここには入れない。


――彼女たちが来るまで。


パルドフとアリシアは、目を見開いてその光景を見つめていた。何が起こっているのか理解できず、ただ立ち尽くす。


夕子の声は、空間の奥へと響いていた。


まだ、誰にも届かない。


けれど確かに、彼女はそこにいた。


誰よりも強く、彼らの到着を信じていた。


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