220、未来 異なる現実、重なる言葉
ふう――。
亜希は、小さく息を吐いた。
朝日が、雲海を紅に染める。世界の天井とも呼ばれる高峰、その氷の斜面に立つ亜希の影が長く伸びていた。
そこは標高三千メートルを超える断崖。氷点下十数度、雪と氷に閉ざされた、命を拒むような地の果て。だが、亜希の肌を刺す冷気は、彼女の意思によって無効化されていた。
彼女は空気の温度を自由に操れる。傾斜の角度でさえ、意識の一振りで変えてしまえる。クライミング・ギアも使わず、ただ足元の感覚だけで、亜希はここまで来ていた。
「……ほんと、馬鹿みたい」
誰に言うでもなく呟いた声は、風に消えた。
昔の自分なら、こんな場所で一時間ももたなかった。寒さに凍え、侑斗に悪態をつき、すぐに泣き言を漏らしていた。けれど今、彼女は世界のどこよりも高い場所に、たった一人で立っている。
侑斗や優香、史音――あの時の丘から、ずいぶん遠くに来たものだと、亜希は思った。
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彼女の力は二つある。
ひとつは、「知成力」――零から与えられた思考の力。量子の重なり合いをマクロに形作り、世界そのものを再編成する力。
もうひとつは、「声の力」――クァンタム・セルの窓を通じて、天の川の彼方から響いた救いの叫び。亜希の内に流れ込んだそれは、いまだ完全に制御できてはいないが、世界の構造を書き換えるほどの力を秘めている。
そしていま、彼女は初めて「一人の旅」に出ていた。
⸻
出発前、数少ない友人たちにだけ伝えた。
電話した浅川凪は、何も言わず頷き、ただひとこと。
「……気をつけて。慎重にね」
それだけだった。
松原洋、牟礼彰、小鳥谷琳――残る三人には直接話した。
琳は、涙声で詰め寄ってきた。
「どうして、なんで一人で行くんですか? みんなで行きましょうよ……」
その場で旅費を全部出すと言い出した時は、さすがに彰が頭を軽く叩いた。
「もちろん、亜希さんの意思が一番大事だけど……やっぱり寂しいな。最近ずっと、ひどい喪失感があってさ。その上で亜希さんまでいなくなるのは、ちょっと……」
松原のその言葉の意味は、亜希にはよく分かっていた。
――零のことだ。
零は、自らの意思か、あるいは世界の作用か――誰の記憶からも消えた存在となっていた。だが、亜希は彼女の記憶をはっきりと持ち続けている。
おそらく、侑斗も、優香も、史音も同じだろう。
亜希は、視線を落としたまま立ち上がると、何も言わずに背を向けた。ファースト・オフの玄関を出て、第一歩を踏み出す――その瞬間、彰の声が背後から届いた。
「……亜希さん、ずっと沈んでたけど……やっと、吹っ切れたんだな、零さんのこと」
思わず振り返る。
「……彰くん、零さんのこと……忘れてたんじゃなかったの?」
彰はこめかみに手を当て、苦悶の表情を浮かべる。
「……いや……さっきまで忘れてた。でも亜希さんの話を聞いてるうちに、なんとなく思い出した。ハルカ先輩と別れたあと……ずっと零さんに護られてた気がして……記憶が……繋がってきた」
彼は苦しげに言葉を選ぶ。
「零さんは、自分の証を消した。でも、世界の構造って案外雑でさ……失われた部分があると、その“不自然さ”が逆に記憶を導くんだよ」
――やっぱり、この人は特別だ。
亜希は、そんな彰をまっすぐ見つめながら問うた。
「……それで? 記憶を思い出した彰くんは、私に何か言いたいことがあるの?」
彰は側頭部を軽く叩きながら、慎重に言葉を探す。そしてぽつりと呟いた。
「……昔、零さんが話してた。波動関数の収縮、状態の収縮のこと。あれって、量子だけじゃなくて、俺たちの日常にも起きてないんじゃないかって」
「私もそう思った」と亜希。
「ずっと考えてた。もしかしたら……俺たちって、本当は全員、別々の現実を見てるのかもしれない。だけどそれを“言葉”ってフィルターで無理に共有してるんじゃないかって」
「じゃあ、私たちが話す意味って、ないってこと?」
「違うんだ。むしろ逆。――俺たちは、自分の世界観だけじゃ生きられない。互いの現実が“干渉”し合って、はじめて“共存”になる。波が重なって、強くなるときも、打ち消し合うときもある。……そうやって、やっと“意味”になるんだ」
亜希は、言葉を失ったまま、遠く紅に染まる空を見上げた。
世界の構造は確かに揺れている。
それでも誰かと関わり、言葉を交わし、想いを重ねる――その営みにこそ、希望はある。
だからこそ、彼女は行く。
零が遺した力を、想いを、未来へとつなぐために。
もうただ待つのをやめると誓った。