218、未来 知の終焉に立つ者たち
個室を与えられたというより、隔離されたと言う方が正しいだろう。
暗い灰色に染め上げられた居室の硬いベッドの上で葛城夕子は目を覚ました。酷く不快な夢を見た気がするが、毎度のことなので反芻する気にもならない。
夕子に与えられた個室には窓がない。綺麗に太陽の道筋に並んだ幾つもの地球を見ることも出来ない。
ラスト・ライブラリは古い城壁の中にいくつもの鉄の塊を繋ぎ合わせて創られている。そして周囲は濃い緑の木々で覆われている。椿優香の言っていた通りだ。
そしてこのステッラの地球の空に虚像を創り出している正体不明のものもいる。
夕子は木之実亜希の事を考える。創造者達の糸を常に手繰らなくても良い、世界に認められた唯一の自分の分身。彼女なら人々に当たり前の日常を取り戻させる事ができるだろう。ならばせめて自分は空に映ったあの茶番を消し去ろう、そしてあの舟を探し出すのだ。黒い舟を優香に渡す為に。
個室のデジタル時計は午前6時30分を示している。パルドフは7時に食事を届けさせると言っていた。食欲はほとんど無いが、食事を運んでくる者から何か情報を得られるかもしれない。
そして午前7時丁度に外側から、ノックの音と共に40前後の酷く簡素な薄い青の衣装の女性が朝食を乗せたトレイを持って入ってきた。
「部屋の鍵はかけなかったのですか?」
そう彼女が問うてくる。
部屋に鍵はかけなかった。ただしこの個室を含む一棟の構造物の出入口全てが施錠されていた。予感はしていたがパルドフは夕子にライブラリ全てを見せるつもりは無いのだろうか?
「パルドフ教授は全てのブロックを案内してくださると言ってらしたのですがそれはいつになるか、分かりませんか?」
彼女は短くハッキリと答える。
「わかりません」
強い口調の後で少しだけ声が柔らかくなり続ける。
「教授達が何をやっているのか、ここにいる殆どの人は知らないんですよ。ですが教授から貴方を丁重におもてなしするよう仰せ捕まっております」
**パルドフはラスト・ライブラリの「原始回帰計画」にどれほど関わっているのだろうか?**夕子は沈黙して考える。
「以前私と同じ顔の女性がここに来たそうですが、ご存知ありませんか?」
彼女は俯いて後ろを振り向き、そのまま出ていこうとする。
そして扉の手前でか細い声を出す。
「何のことか分かりません」
それだけ言うとそそくさと夕子の部屋を後にした。
⸻
頭がフラフラする。身体にも力が入らない。意識が戻る方が肉体の回復より早い。夕子は1時間ほどかけてようやく右腕に力がこもり、それをゆっくりと動かして額まで持ってくる。
どうやら食事に何か盛られたようだ。
胃の辺りがムカムカして吐気がする。
夕子の予測ではラスト・ライブラリの支配者が仕掛けてくるのは、もう少し後のはずだった。彼等も焦っているのだろう。
頭を動かして周囲を見回す。誰もいない。人の気配がしない。それよりも衣服は薄い、手術を受ける患者のようなものに着替えさせられている。そんなことに夕子の感情の波は高まった。意図的に眠らされ身体中を調べられたのだ。なんと破廉恥な!夕子はあの人の良さそうなパルドフの顔を思い出し、激しい嫌悪感に襲われる。
その部屋中に得体の知れない黒い機械類が溢れている。夕子が寝かされていたのはかなり大きな円盤状の中心部。腰の部分に継ぎ目の無い、黒いベルトで固定されている。これでは意識と身体の感覚が戻ってもこの拘束から逃れられない。
夕子は腕と腰を動かして脱出を試みたがどうも駄目なようだ。だがまあ良い。夕子は気持ちを落ち着かせる。どのような検査結果であれ、必ず漆黒の舟の元に連れて行かれるのは間違いないのだから。
夕子が目覚めてから30分くらいして緑の簡素な衣服を纏った女性が広い部屋の中に入ってきた。
彼女は夕子が拘束されている円盤の端から声をかけてくる。
「予想より大分早く覚醒しましたね。最後の星を繋ぐ者、最後の女性」
金髪の理知的に見える30代半ばほどの女性だ。
「今更淑女のような振る舞いをしても、私は貴女達を許しませんよ」
きつい声で夕子は彼女を睨む。
「私はアリシア・ドールと言います。貴女の身体を断りなく調べた事をお詫びします。たとえそれをしたのが、全て私のような女性科学者だけと言っても貴女は私達を許さないでしょう」
夕子は炎のような瞳で上半身を少しだけ起こし、アリシアを睨む。
アリシアは俯いたまま、夕子の感情の行方を見守る。
腰を縛るベルトが苦しくなってきて、夕子はもう一度、仰向けに横たわる。
暫くして夕子の方から問いかける。
「随分と急いだのですね。これ程早く拉致されるとは、思っていませんでした」
パルドフの被害者意識と善人面を思い出し吐気を催す。結局このラストライブラリの科学者は、夕子を人として扱う気など最初から無かったのだ。
アリシアはゆっくりと語りかけてくる。
「何を言われても仕方ないですね。まあ、貴女の言う様に私達が急いでいるのは全くその通りです。貴女の前の声を繋ぐ者は声の力を制御できず、黒き舟に命を吸い込まれてしまった。その前の声を繋ぐ者と同じようにね。それでも5人のあなたの姉妹達のおかげで、道筋は開いたんですよ。そして貴女の身体を調べて確信しました。貴女は間違いなく銀河の声を量子の海に導けるでしょう」
そんなことは最初から分かっていた。椿優香によって最も木之実亜希に近い存在に調整されたのだから。
夕子はドーム状の黄色い天井を見つめる。天井全体が淡い照明になっている。
「どうせなら木之実亜希を呼べば良かったのでは?私は所詮彼女のように自らの意志で声を繋ぐことは出来ないし、貴方達が使う者としては私は到底及ばない」
木之実亜希という名前を夕子から聞いた途端にアリシアの表情が強張る。
弛緩した表情から渇いた声が出てくる。
「そうですか、木之実亜希の存在も知り原始回帰計画も知っている。あなたは全て知った上でこのラスト・ライブラリまでやってきたのですね」
アリシアは夕子の背後に何者かの存在を感じた。椿優香というラスト・ライブラリの全員が意識している者以外の意思が、夕子に干渉している、そんな気がした。
「全て解っているのならば自由意志で声と繋がる木之実亜希など私達の手に負えないことは知っているでしょう?彼女に手を出せばこのラスト・ライブラリどころかこの地球さえも一瞬で消し去られてしまう」
「貴方達ラスト・ライブラリの科学者達は、私の姉妹を犠牲にして量子船を放ち、愚かな大衆を騙し続けた。結局あなた達は全ての人類を裏切ったのよ」
人類の叡智の最後の保存場所と偽り、世界を、この星を原始に還し破滅を望むのなら、いっそのこと全て木之実亜希に消し去られてしまえばいい、夕子はそう思った。
「人の歴史は最初から破滅を望む様に営まれてきた。人が滅びるのは必然です。これ以上醜態を晒す前にね。
それでは最後の転創者、葛城夕子、全てを知りながら何故此処へやってきたのです?」
その問いには夕子の背後にいる椿優香の意図を探ろうとしている事が見てとれた。
それは無駄な事だ。優香は指示するまで夕子に決してラスト・ライブラリに近づくな、そう言っていたのだから。ここに来たのは葛城夕子自身の意思だ。
「私はあなた方の漆黒の舟に乗るために此処へやってきた。量子の海を渡る為にやってきた。貴方達を急かしている大衆達に最後の絶望を与える為、早く私を連れて行きなさい!」
夕子はそう言い放つ。アリシアは夕子の身体を縛っていたベルトを操作して外す。
「あなたの個室に戻って下さい。全ての準備が終わったらあなたを迎えに行きます」