20、過去 幻霧行Ⅰ
侑斗は緊張していた。
そりゃそうだ。突然の雨に降られ、散々な状況なのに、なぜか大人の女性と二人、狭い車内で身を寄せ合う羽目になっているから。正確には閉じ込められているわけではないが、その場の空気に圧倒され、狭いシートの上でさらに体を縮め、硬直していた。
「そんなに固まらないでほしいな。なんだか、私が悪いことをしたみたいじゃない?」
隣の運転席から、明るい声が響いた。
声の主である椿優香は、助手席の侑斗を面白がるようにニヤリと笑っている。
「……す、スミマセン……」
侑斗がぎこちなく謝ると、優香はフッと微笑んだ。
「君、面白いところで謝るね?」
彼女のブラウンの髪から、どこか異国の香水のような、嗅いだことのない甘やかな香りが漂ってくる。洗練された美しさだけでなく、どこか危うい雰囲気を纏う彼女に、侑斗はただ圧倒されるばかりだった。
(この奇跡を、一生忘れないだろう……いや、誰も信じないだろうけど、一生自慢しよう)
そんなことを考えていると、優香がふとフロントガラスを見上げた。
「雨が緩くなってきたね」
「雨が“緩い”? 変わった言い回しをする人だな」と思いながら、侑斗は耳を澄ませた。フロントガラスを叩く雨音は、確かに静かになっている。
「そろそろ止むよ」
優香の言葉通り、フロントガラスにはほとんど雨粒が当たらなくなった。彼女が軽くワイパーを動かすと、ガラスに残った水滴が消え、代わりに不気味なほどに白い景色が広がる。
「外は霧で真っ白だね。いや、霧というより……蒸気霧かな」
優香の言葉に、侑斗は首を巡らせた。彼女を見るのは気恥ずかしいので、外の景色に意識を向ける。
――凄まじい霧だ。
車の窓の向こうは白い靄に包まれている。地面も、アスファルトも、すべてが白に覆われ、境界線さえ見えない。よく見ると、霧の中に灰色の煙のようなものが混じっている。
「これって……ホワイトアウト、じゃないですか?」
侑斗は呟いた。兄から聞いたことがある。スキー場の帰り道、猛吹雪の中で前後左右の感覚が失われることがある、と。今の状況もそれに近い。いや、もしかすると、もっと異質な何かかもしれない。
そんな不安をよそに、優香はごく自然な口調で言った。
「さて、それじゃ雨も止んだし、そろそろ移動しますか。町まででいいよね?」
「え?」
あまりにあっけらかんとした声に、侑斗は驚いて彼女を見た。
「おお! やっとまともに顔を合わせてくれたね!」
優香はまるで心の底から喜んでいるかのように手を打った。
「いや、でも、外……こんな霧で見えないじゃないですか? 霧が晴れるまで待ったほうが…」
「そうか、そうか。綺麗なお姉さんともっとゆっくり過ごしたい、そういう君の気持ちはよく分かるよ。でもね、時間は大切にしないと!」
いや、そうじゃなくて! ……いや、そうだけど、そうじゃなくて!
「心配無用! 私の車には霧除けが付いてるんだよ」
はて?フォグランプはそんなに万能なものだっただろうか?
侑斗が理解する間もなく、優香はギアをドライブに入れた。カチッという音が静かな車内に響く。エンジンが低く唸りを上げる。
「見えるんですか?」
「もちろん」
優香は何の迷いもなく答えるが、侑斗には何も見えない。ただ白い霧が車の周囲を包み込み、どこに進むべきかさえ分からない状態だ。
「君、アインシュタインみたいだね」
唐突に優香が言う。
「え?」
「自分に見えないものは、そこに存在しないと思ってる? もちろん、アインシュタインはそんなこと信じてなかったけどね」
優香の口元が、不敵な笑みを浮かべた。
エンジン音がわずかに高まり、車は霧の中へと滑り出した――。
侑斗の胸の中で、激しく警告音が鳴っていた。
しかし彼はそれを無視した。
「人間原理みたいですね」
どこか得意げに言いながら、侑斗はシートにもたれ直す。彼の言葉に、優香が眉をひそめた。
「人間原理?」
「だってそうじゃないですか? 宇宙が――いや、この世界が、人間がそれを観測できるように精密に設計されている。それが人間原理。あなたの言い方って、まるで『自分を存在させるために世界がある』って言ってるみたいじゃないですか?」
侑斗は肩をすくめ、軽く笑ってみせた。もし彼女の考えが本当にそうなら、 とんでもない唯我論者だ。
優香の口元がきつく結ばれる。
「饒舌になったと思ったら、未消化の知識をひけらかして、挙げ句の果てに失礼なことを言うのね。お姉さん、ちょっと気分が悪いよ」
ハンドルを握る彼女の手は微動だにしない。車体も、霧の中をまるで水の上を滑るようにぶれることなく進んでいる。
侑斗は少しムッとしながら言い返した。
「じゃあ、優香さんはこう思ってるんですか? 人類は地球上の生命の頂点じゃない、とか?」
「へえ、君はそう思ってるんだ?」
優香の声が、わずかに嘲るような調子を帯びる。
「違うんですか? 進化の過程で、人類は最も優れた存在になったって、偉い学者たちも言ってますよね」
侑斗が反論すると、優香は鼻で笑った。
「人類より優れた存在が、この世界にいるって言われたら、君はどうする?」
「……それは、その優劣の基準にもよりますよね?」
「ほら、また頭が固い」
優香は肩をすくめた。
「生命はね、それぞれ自分が一番だと思ってるものだよ。鳥は鳥こそが、虫は虫こそが、魚は魚こそが一番優れていると思ってる」
侑斗は何か言い返そうとしたが、妙に納得してしまい、口をつぐんだ。
「それにね、私は人間原理なんて微塵も信じてないよ」
優香はフロントガラス越しに霧の奥をじっと見つめながら続ける。
「認識できるから世界があるんじゃない。人間が『世界の一部を認識できた』と思い込んでるだけなんだよ」
侑斗は視線を落とし、小さく呟いた。
「すみません……俺は、間違いの中にしか答えを見つけられないんです」
優香はクスリと笑う。
「へえ、それじゃあ君は背理法的には“正しい答えの存在”を信じてるんだね?」
その一言が妙に刺さって、侑斗は黙り込んでしまった。
「落ち込まないで、傷つきやすい男の子はモテないよ?」
傷つけた張本人が何を言うんだか、と侑斗は苦笑する。確かに、女子にモテる男は神経が図太い気がする。
「さて、そろそろベルも準備が終わった頃かな。悪いけど、ちょっと寄り道するよ」
そう言った瞬間――優香の表情が、一変した。
「……なんで?」
彼女が低く呟いたかと思うと、急ブレーキの音が車内に響き渡った。
タイヤがアスファルトを焦がし、鋭い焦げ臭い匂いが立ち込める。
「えっ……?」
初めて見る彼女の真剣な表情に、侑斗は思わず息をのむ。
優香は迷わずドアを開け、車外へ飛び出した。
(なんだ? 何が見えた?)
侑斗も、ただ座っているだけでは申し訳ないような気がして、慌てて助手席側のドアを開ける。
霧の中から、ぼんやりと人影が現れた。
何かにぶつかった衝撃は感じなかった。だが、確かにそこに“人”がいた。
うつろな目をした女性。この山の中には場違いなほど軽装で、まるで彷徨ってきたかのように足を引きずっている。
「……ごめんなさい。私、よく分からないうちに置き去りにされて……」
その人は優香より若く、驚くほどの美人だった。
(……今日は美人のバーゲンセールか?)
侑斗は心の中でため息をついた。