216、 未来 私は、私を赦さない
虚ろな空間が広がる。光も音も希薄なその領域に、二人のユウ・シルヴァーヌが向き合っていた。まるで鏡合わせのように同じ姿をしながら、そこに漂う気配はまるで異なる。
侑斗の存在は揺らいでいた。目の前の光景を必死に客観視しようとするが、自分の中にもう一人の存在が入り込んでから、現実感は次第に曖昧になっていた。
「何故だ?」
かすれた声が空間に響く。
「僕が切り捨て、ベルティーナにサイクル・リングを渡した後は、何も残らないはずだった。僕の残滓に、自我などあっていいわけがない……」
侑斗の前に立つユウ二人は確かに同じ容貌をしていた。だが、その目は別の光を宿していた。
意識の世界であるサイクル・リングの空間。そこに二人のユウが、クリスタル・ソオドの波動と共に揺れ動いている。その剣は、まるで彼らの感情の揺れを映すように、微かに震えていた。
もう一人のユウが、落ち着いた声で答える。
「そうだ。僕は、本来なら消えるだけの存在だった。ベルティーナの力を制御するには、僕のサイクル・リングを使うしかなかった。そしてその後に残るものは……本来、何もないはずだった」
彼の表情がわずかに歪む。
「けれどベルティーナは……僕を守ろうとした。無意識のうちに、存在の力を与えてしまったんだ」
その顔に険しさが浮かぶと同時に、二人の姿は徐々に相反するものへと変化していく。影と光、静と動、同じ形をしながらも、明確に異なる存在。
「この地球に来てからは、レイがずっと彼の中にいる僕を支えてくれた。それが、今の僕を形作ったんだ。だから、こうして自我を持って君に立ち向かうことができる」
「くだらない妄執と拘泥だ」
別のユウが吐き捨てるように言った。
「そんな感情で世界が救えるとでも? 君の創ろうとしている世界は、結局誰も救わない」
その言葉に、静かにもう一人のユウが応じる。
「ならば、君の世界に何がある? 君は自分が間違えた事を忘れたのか?」
言葉の応酬の後、空間に激しい光が奔った。
一本のクリスタル・ソオドが、鋭く侑斗ともう一人のユウに向かって放たれる。
だが——。
「そして君は忘れている。肝心なことを」
次の瞬間、空間の一角から現れた力が片方のソオドを霧散させる。蒼白い閃光が刃を打ち砕いた。
「……なんだって?」
驚愕の声が漏れる。背後に立っていたのは、葵瑠衣の姿を模した椿優香だった。
「ふう、やっと出来た。クリアライン・ブレイド。それにしても……面白いことになってるね」
侑斗のユウは軽く肩をすくめ、対面するユウは優香に向けて言葉を投げた。
「なるほど。葵瑠衣が持っていた執念、いや存在力か……僕が離れた後も、独立した人格として残るほどだったとは。不愉快極まりないが」
続けて、侑斗と繋がるユウは淡々と真実を突きつける。
「君は、椿優香が自立した後の記憶が無い。だから、まだ自分が本体だと思っている。でも違う。僕が侑斗の本体でないように、君も彼女の本体ではない。僕たちは皆、サイクル・リングの記憶に刻まれた情報にすぎない」
その言葉に、侑斗は複雑な感情を覚える。自分の中のもう一人の自分が、まるで懺悔するように侑斗に言葉を向ける。
「君は、ずっと絶望の中で生きてきた。たとえ“シニスの塵媒”がなくても、君は同じように苦しんでいただろう。それは全部、僕の業だ。本当に……すまない」
まるで、自分自身に謝っているようだった。
ユウと侑斗の間には、25%ほどの意識が今なお繋がっている。完全な分離ではない。それゆえに彼の謝罪は、まさに自分へのものだった。
「僕は君の中に戻る。でも最後の瞬間、君が僕を必要とした時、必ずまた現れると約束しよう」
そう言い残して、ユウは光となって消えた。
取り残されたユウ・シルヴァーヌは、呆然と立ち尽くす。
「なぜだ……僕をこの地球に転創させたのは僕自身だ。葵瑠衣の干渉は計算外だったが、“声の力”で世界を救う計画を立てたのは他でもない、僕なんだ。僕なしで……何ができる?」
その独白は、侑斗には哀れに響いた。
彼の中に存在した四人の自分。そのうち三人に否定された自分自身。
「そうか……君は、僕を切り離した。クリスタル・ソオドを作らせるために、自分を消えたと思わせた……」
優香は、ほぞを噛むように苦笑しながらも柔らかく微笑む。
「まあね。侑斗が使っていた剣は、レイの造ったオリジナルには劣る廉価版。だからどうしても、本物のクリスタル・ソオドが必要だった」
優香は、手にしたクリアライン・ブレイドをそっとユウに向ける。
「クリアライン・ブレイドはもともと私の中の葵瑠衣が造った剣だからね。このサイクル・リングの情報の海の中で再生するのは簡単だったよ」
「それで僕を消し去るのか……?」
だが剣は振るわれなかった。優香は剣を下ろし、左手を差し出す。
「そんなこと、するわけないじゃない。あなたは私の中に戻る。今度こそ、完全に同化してあげる」
侑斗はその光景を見つめる。ユウ・シルヴァーヌが優香の中に吸い込まれていく。
再び、静寂が戻る。
「彼を創ったのは私。フィーネの塵媒に取り憑かれた私が、彼の本質を変えてしまった。だから……書き換えるしかなかったんだよ。彼の記憶には、弱さを認める本質が欠けていたから」
優香は剣を下ろすと、吐き出すように呟いた。
「ああ、もう本当に……私はユウなのか、葵瑠衣なのか、椿優香なのか、自分でもわからなくなってきたよ」
それでも侑斗は思う。このすべてが「椿優香」という女性の本質なのだと。
優香は空いた手で、残されたクリスタル・ソオドを持ち上げ、侑斗に差し出した。
「さあ、これを持って私たちの世界へ戻ろう。この二つの剣が、創造者たちと戦うためのすべての力だから」
侑斗がその剣を握った瞬間、世界が反転し、再び元の形を取り戻していった。
――歪んでいた空間が収束していく。
波紋のように広がっていた次元のひずみは静かに消え、ねじれた世界は元通りの構造を取り戻した。
侑斗と優香が立っていたのは、崩れかけた古い城の残骸の中だった。
灰色の空の下、強い風が吹き抜ける。瓦礫の間を粉塵が舞い、優香の長い髪を大きくなびかせた。
二人の足元には、かつて追い詰めてきた女たちの手足が、ばらばらになって散らばっている。けれど、それ以上にあたりに漂っているのは石と鉄の臭い、そして乾いた砂塵だった。侑斗が想像したほどには、血の匂いや生々しい死の感覚はなかった。
「さて、武器も手に入ったし、さっさと移動しようか」
優香は風の中、乾いた声で呟く。
「もう一度あの女たちに追われるのはまっぴら。消滅させるのも、私としては気が進まないしね」
侑斗は、周囲の惨状に心を痛めることが不思議なほどなかった。
“こうしなければ、今ごろ自分たちがこうなっていただろう”
そんな確信が、どこか静かに胸の内に落ち着いていた。
(死は、いつか必ず訪れる。だが、それは今日ではない)
侑斗はそう思った。まるで何者かの意思が、自分にそう囁いたかのように。
「……どこへ向かうんだ?」
粉塵と血の臭いが衣服の隙間から忍び込む。不快さに顔をしかめながら、侑斗は問いかける。
その問いに、優香は少しだけ眉をひそめてから、軽く返す。
「前にも言ったでしょ。私たちが向かうのは《ラスト・ライブラリ》だよ」
その響きは、冷たくも確かな重みを持っていた。
侑斗は頭を抱えて呻いた。
「……いや、さ。どう考えても、出発地点の方が《ラスト・ライブラリ》に近かったよね? なんだかんだ言って、ずいぶん遠回りしてないか?」
優香は、その問いを聞き流すようにそっぽを向いたまま歩き出す。長い旅の間、彼女は常にこうして“本質”を語らず、目の前の道だけを示してきた。
「物理的な距離で言えば、そうかもね。でも、入り込む障害を避けたからこれが最短だったのんだよ」
優香の答えは、どこか投げやりなようで、それでもどこか確信に満ちていた。
実際、二人はユーラシア大陸を越えて、半年以上の時をかけて旅をしてきた。
(知性が違うんだ……)
侑斗は心の中でつぶやき、諦めにも似たため息をついた。自分よりも数段、優れた理解と直感を持つ彼女に、もはや逆らう言葉は持ち合わせていなかった。
(もしこれが“新婚旅行”だったら……なんて冗談にもならない)
「さて――」
優香がクリアライン・ブレイドを持ち上げる。陽の光に反射する刀身は、先ほどよりも透明度を増しているように見えた。
「さあ、行こう。あそこをなんとかしないと、創造者たちと戦えない」
彼女は剣を軽く振り上げ、音を立てて空を切る。
“ブン”と空気を震わせるその音が残響を残し、やがて彼女は柄だけをポーチにしまい込んだ。
その瞳には、微かに揺らめく覚悟が宿っていた。
***
場面は変わる。
⸻
広大な研究区画の一室。そこには冷たい人工光が満ち、金属の壁が音を吸い込んでいた。
在城夕子と名乗る少女が、パルドフと対峙していた。
パルドフは、無言で彼女を見つめる。やがて、静かに口を開いた。
「さて、自称“在城夕子”くん。私は君が偽っていることを知りながら、ここまで連れてきた。……そのお返しに、君の正体と目的を教えてもらえないか?」
その問いに、夕子は一瞬だけ微かに表情を失った。
だがすぐに、何事もなかったように整った顔を取り戻す。
「状態は常に揺れ動いているんですよ、ドクター。私は私。生きている“在城夕子”の経路からやって来たのです。それで……ご納得いただけませんか?」
その軽やかな調子に、パルドフは小さく首を横に振る。
「どんな経路を通ろうと、結果の異なる状態にある者とは共存できない。……他人が決定した“実在”を、同じように認識することもできない」
彼の声は冷静だったが、その奥には探るような鋭さがあった。
「だがまあ、君の正体には、それほど興味はない。私は“君がここで何をするのか”を知りたいのだ」
しばしの沈黙。
夕子はまっすぐにパルドフの目を見据え、口を開いた。
「それはもちろん、あなたたちインテリが“極端な偏向思考”に陥り、知性の劣る者を見捨てようとしているからです」
パルドフは眉をひそめた。
「……君は野蛮人を、反知性主義者を庇うのか?」
「いいえ、軽蔑しています。群衆心理や感情だけで動く、理のない人々を」
夕子の声は落ち着いていた。
「でも――だからといって、彼らを見捨てるのは“知性ある者のすること”ではないでしょう? あなたたちは、“彼らをも救う手段”を導き出さなければならなかった」
パルドフの胸に、針のような違和感が刺さる。
(理想論が、実際に役立ったことがあるか?)
(学ぼうとせず、劣等感から敵意を向ける者たちを、救う意味があるのか?)
しかし、夕子の瞳は揺らがない。そこには確かな意志があった。
「私たちは、君のように“自ら進んで”ここに来る者は救おうとしている。それが、我々にできる精一杯の譲歩だ」
パルドフの言葉に、夕子は声を出さずに笑った。
そして、ふいにその笑みを止め、静かに手を首筋へとやる。
淡く光る膜が剥がれ、仮初の顔が解けていく。
肌の質感、瞳の色、表情の気配さえも変化し、本来の彼女がそこに現れた。
それはパルドフの記憶に有る姿だ。
「――私は、あなたたちに殺された姉妹の、最後の一人よ、世界の芯まで見通せる貴方達がこの程度の変装を見破れないなんてね」
パルドフの目が見開かれる。
「……まさか……」
「私たちは、木之実亜希のコピー。シニスのダークによって創られた“仮初の存在”」
その言葉は、静かでありながら凍りつくような重みを帯びていた。
「野蛮人の特殊な捜査官によって発見され、“銀河の声”の力を導く実験に使われた。
でも、その力は誰にも制御できなかった。姉妹たちは、一人また一人と、“救済”の名のもとに……消されていった」
パルドフは顔を伏せた。
それは、彼にとっても望んだ結末ではなかった――だが、誰も止めなかった。
「……君の姉妹たちのことは、どうしようもなかった。……あのとき、私たちは……止められなかった。理性を超えた力に、あまりに無防備だった」
夕子の目が鋭く光る。
「それでも、あなたたちは続けた。そして全てが嫌になって、ついに“無知な群衆”に希望を持たなくなった。だから、世界を棄てようとしている。「原始回帰計画……」それがあなたたちの選んだ未来」
パルドフは、声にならない嘆きを飲み込む。
「……我々が選んだのではない。世界が――知性が敗北した、君の最後の姉妹が消えた時、あの日がそうさせたんだ。私たちは、あの光に焼かれた。二度と誰かを実験台に乗せないと……誓ったのだ」
「それでも私はここにいる。 あなたの前に、今こうして立っている?」
夕子は歩を進める。その瞳には怒りでも、復讐でもない、ただ真実を問う光が宿っていた。
「私は、あなたたちの過去を体現する存在。生き残った、最後の一人。あなたたちが選択者として私をどう導くのか?その未来をこの身体で観測する」
パルドフは、しばらく沈黙したのち、静かに呟いた。
「……その未来が、私たちを救えるものなら……どうか、教えてくれ。私たちはどうすれば良いのかを」