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215 未来  誰が“僕”を名乗るのか

サイクル・リングから情報の奔流となって高次元へと押し流された侑斗は、奇跡的にも意識を保っていた。


そこは形ある世界ではなかった。空間と時間が曖昧に溶け合い、色彩も音も失われたような、ただ情報の波が渦巻く空白の領域。重さも感触もなく、浮遊しているのか落下しているのかさえ判然としない。ただ、無数の人々の記憶と感情が錯綜し、ざわめきのように耳に響いてくる。


この場所は、ブルの地球の技術者たちによって設計されたものだった。失われるはずの存在の力を蓄え、保持するために繋がれた仮想の空間。侑斗の意識は、まるで巨大な記憶の迷路に放り込まれたように漂い続けていた。


そして、彼は自分自身の“過去”と出会う。


最初に現れたのは、優香との初めての出会いの記憶だった。


「知らないから許されると思うな!」


怒声が響いた瞬間、侑斗の意識の奥にヒリつくような痛みが走った。肉体はもう存在しないはずなのに、頬を打たれた感覚が鮮明に蘇る。思い出されたのは、あまりにも未熟だった自分。ベルティーナによって創られた時から、誰かに許されようなどと一度たりとも思ったことはなかったはずなのに。


次に聞こえたのは、亜希の声だった。


「あんたさあ、ホント面倒くさくて気持ち悪いんだよね。まあ、我慢できないほどじゃないから、ちゃんと面倒みるよ」


冷たくも率直なその声は、むしろ清々しかった。亜希の言葉には裏も飾りもなかった。面倒くさいし気持ち悪い。それでも見捨てない――その矛盾のない真っ直ぐさが、なぜか胸に残る。


そして、もうひとつの声。


「私だけを置き去りにする、みんな……」


絶望の色が滲むその言葉は、未来から流れ込んできた情報なのか。それとも、亜希の深層に潜む本音だったのか。


さらに、彰の叫びが鮮やかに響いてくる。


「自分たちだけ知ってるっていうだけで、偉そうにすんじゃねえよ。分からないこと、知らないことは罪じゃねえ!」


その声に込められた怒りと悔しさが、意識の海を震わせる。侑斗は胸ぐらを掴まれたような感覚とともに、感情をむき出しにする彰を冷ややかに見ていた。


――何も知らず、何も分からずにいれば、人は本当に幸福になれるのか?


だが、最も信頼し、最も尊敬していた人物――史音の幻影だけは、現れなかった。


幾つもの記憶の断片をなぞったその先で、侑斗はようやく「今の優香」の意識と接触する。


「この情報の海で、少しも揺るがず、同じ場所に居続けたなんて異常だね。おかげで君を見つけるのは楽だったよ」


優香の声は、波のように柔らかく侑斗の意識に干渉してくる。


「外は……」


言葉を持たぬ侑斗が、どうにか意思を絞り出す。


「外の女たちはもう誰も生きていないのなら、早く戻りたいな」


その応答も、波のように帰ってくる。


「まあ、一人残らず無惨に死んだと思うよ。私もすぐに戻りたいけど……今の自分の無力さを痛感しててね。せっかくだから、ここで“武器”を手に入れる」

「武器?」


侑斗の問いかけに、優香はまるで微笑むように意識の波を揺らした。顔も表情も存在しないはずなのに、その“雰囲気”は確かに彼女のものだった。


「そう。私たちは、たった二人だけで創造物たちと戦わなければならない。君がかつて、この次元から引きずり出した――クリスタル・ソオドとクリアライン・ブレイド。その情報を、今ここで回収しておきたいんだよ」


侑斗は瞬時に悟る。――自分は、亜希の加護を失ってから、あの二本の剣をもう取り出せなくなっていた。


「私は、クリアライン・ブレイドを探す。あなたは、クリスタル・ソオドを。手に入れたら、またここで落ち合って――世界面の向こう側へ、帰ろう」


その言葉を残して、優香の意識はふっと遠のいていった。静かに、しかし確実に離れていく気配。まるで潮が引いていくように、彼女の存在が遠ざかる。


残された侑斗は、言い知れぬ不安に包まれる。自分自身が、ただの“意識だけの存在”に過ぎない今、この裏返ったような世界の中で、一体何を頼りに武器を探せばいいのか。


――何も見えない。何も触れない。

――ここには、地面も空も、始まりも終わりもない。

――この空間には“探す”という概念さえ希薄なのだ。


それでも、侑斗は動かなければならなかった。動く、というよりも“考え続ける”ことが、彼の唯一の存在証明だった。肉体のあった時は当たり前のように感じていた自我の維持が、ここでは命がけの作業になる。意識を一点に集中し、思考を保ち続けなければ――この海のような情報空間に、簡単に溶けて消えてしまう。


そんな中、彼は“それ”を感じた。


空間が――否、情報が揺らめいた。風が吹いたかのような気配。物理的ではない、もっと内面に訴えかけるような波動。その波動の中心から、声が聞こえた。


「君が探しているのは、これだろう?」


その声とともに、遠くへ消えたはずの優香の意識が、いつの間にかすぐそばまで戻ってきていた。唐突な再会だったが、なぜか自然に受け入れられた。それだけ、彼女の存在は強く、はっきりとしていた。


侑斗と“彼女”の間に、透明な短剣が浮かび上がる。スッと空間を切り裂くようにして、形が現れていく。澪に作ってもらったものでも、自分で再生したものでもない。明らかに異なるその形状――


そして、侑斗は理解する。理由は分からない。ただ確信がある。


――これは、オリジナルのクリスタル・ソオドだ。


「優香……。いつの間に。クリアライン・ブレイドは、見つかったのか?」


問いかけながらも、侑斗の意識は妙な違和感を覚えていた。確かに彼女のように思えるその存在。だが、何かが違う。優しさが削ぎ落とされ、毅然とした力強さに変わっている。逆に、強さの裏にあった柔らかさが、どこか別の何かに置き換わっていた。


「クリアライン・ブレイド?ああ……あれは、要らない。あの剣は、振るった対象を世界の結合から強制的に外す。危険すぎる。クリスタル・ソオドが相手でも、時の狭間に葬り去ってしまうから」


彼女は静かに言う。まるで、日常会話のように。恐ろしい事実を、感情のない言葉で。


「心配はいらないよ。もともとクリスタル・ソオドは、両腕で一対だった。この二本があれば、それで十分だ」


侑斗は直感的に後退する。目はないはずなのに、視線を逸らしたくなる衝動。心の奥で警鐘が鳴る。


――これは危険だ。


緊張で固まった思考の中から、ようやく一言を絞り出す。


「……おまえ、誰だ?」


その瞬間、彼女の姿が崩れた。否、それまで“優香”であったはずの存在が、まるで殻を脱ぎ捨てたように変貌した。


目の前に現れたのは、別人だった。優香ではない。だがどこか、かつての自分自身に似ている。


「僕が彼女の本体だよ」


その存在は、まるで少年のようだった。ユウ・シルヴァーヌ――澪とベルティーナが命をかけて愛した男。しかし目の前にいるこの姿には、彼女たちが求めた“何か”が決定的に欠けていた。



「優香はどうしたんだ?」


侑斗は、意識だけの存在でありながら、険しい表情を作ったつもりで問いかけた。だが返ってくるのは、冷ややかで、どこか歪んだ波動。相手から伝わってくる意識は、まるで蔑みのように薄暗く、撫然としていた。


「君は僕だったものの一部なのに、ずいぶんと知性が劣っているね。切り捨てて正解だったよ」


その一言に、侑斗の中に怒りの火が灯る。もし今、自分に腕があったなら、胸ぐらを掴んででも問い詰めていたに違いない。だがここでは、それすらも叶わない。ただ、意志と感情――それだけが武器だった。


「頭が悪くて申し訳ないな。でもな……俺の中の“あんた”は、今の“あんた”を全否定してる。優香はどこにいる!」


怒りを込めた意識が放たれた瞬間、相手の波動にわずかな焦りが混ざる。それを見逃す侑斗ではなかった。


「だから、どこにもいないって言ってるだろう? 彼女はもう、僕になったんだよ」


薄ら笑いすら感じられるその答えに、嫌悪感がこみ上げる。


――気持ち悪い。まるで、自分の意識に混ざった女の言葉のように聞こえる。

――こんな男に、澪やベルティーナが惹かれるはずがない。


「じゃあ……優香に混じっていた葵瑠衣は? あいつはどうなったんだ?」


侑斗の問いは、鋭く切り込むように響いた。相手の波動が一瞬だけ淀み、再び平静を装うように応えた。


「切り捨てたよ。あの妄執の塊は、最初こそ役に立ちそうだったから取り込んだが……今となっては不要だ。もう価値はない」


その言葉には、何の情もなかった。まるで使い捨ての道具のように、葵瑠衣を切り離したことを平然と語る。


「そして――君もいらない。君は、遥か昔に切り離した僕の“負の存在”。無様で、愚かで、不要な残滓だ」


その瞬間、空間に浮かんでいた二本のクリスタル・ソオドが、鋭く侑斗の意識へと向けられる。無音のまま、まっすぐに切先がこちらに迫ってくる。


「此岸へ戻るのは、僕だけだ。君の存在は許されない。だから――いなくなれ」


短剣たちは一気に加速する。だが次の瞬間、信じられないことが起きた。


――止まった。


中空に浮かんだまま、二本の刃が、まるで見えない鎖に引き止められたように動きを止め、微かに揺れ始める。


そして、侑斗の中から、もうひとつの“声”が響いた。


「許せないのはお前のほうだよ」


それは、侑斗の意識とは別の場所から響いてきた。だが確かに、侑斗と共鳴していた。


「お前は……そうやって、切り捨ててはいけないものを捨てすぎた。僕の弱い心、傷ついた記憶、それら全部を不要だと断じてきた。でも――それがあってこその“僕”だ。お前は、もはや僕じゃない。僕の本体ですらない」


「……どういうことだ?」


敵意に満ちたもう一人のユウが戸惑いの気配を見せる。


そして、静かに事実が突きつけられる。


「サイクル・リングに意識と記憶を残したのは……君だけじゃない」


その瞬間、空間の波動が大きくうねり、情報の海にもうひとつの存在が浮上する。


二人の“ユウ・シルヴァーヌ”が、今――対峙した。






「波動関数の崩壊……ですか」


薄暗く閉ざされた部屋の中、在城夕子は少し背を丸めながら、落ち着いた声で問い返した。


空調の効きすぎた室内。湿度のない乾いた空気が、肌に微かな違和感を残す。照明は控えめで、木製の小さなテーブルを挟んで対面する二人の顔に、淡い陰影を落としていた。


座っている椅子はどちらも硬く、まるで“長居は不要”だと言わんばかりだ。パルドフは重そうに腰を下ろしていた。窓もない、音のない部屋。壁の一角では、古びた計測器のランプだけが静かに明滅している。


パルドフはしばらく沈黙し、そしてゆっくりと首を横に振った。


「ニアデスキャットの話を思い出しているのなら、やめてくれ。私は猫が好きなんだ」


自嘲気味な声に、ふっと空気が緩んだ。けれど、そこにはどうしても拭いきれない痛みがにじんでいた。


妻と娘、そして二匹の愛猫。科学を憎んだ群衆によって、そのすべてを理不尽に奪われた。それが、この老科学者が背負う過去だった。


夕子はわずかに視線を落とす。切長の睫毛が伏せられ、静かに揺れた。


「私も、猫は好きです。でも……」


一拍おいて、彼女は少しだけ口角を上げて続けた。


「ミクロの状態が不確定性原理や経路積分によって確率的にしか存在を示せない。けれど、人が観測することでマクロの世界に確定した現象として現れる――それが今の地球の状況に通じていると、教授たちは考えておられるのですか?」


パルドフの眉間に、深い皺が寄った。額の皺と混ざって、その表情はまるで彫刻のように刻まれている。


「いや……そうではない。いわゆる『状態の収縮』など、本当は起きていなかった。それが今、このラスト・ライブラリで主流となっている見解だ」


彼の声は低く、重く響いた。


もし、目の前に座っているこの東洋の女性が、話の本質を理解せず、あるいは理解することを拒んでここを後にするなら――それは決して珍しいことではない。実際、この部屋を去って二度と戻らなかった者は、これまでにも数多くいた。


しかし――夕子は違った。


「……私は兄ほどの知性はありません。ですが、ミクロの世界に関する本をいくつか読んだことがあります。素人知識で恐縮ですが……波動関数の崩壊を巡る解釈では、多世界解釈が有力だと聞きました。観測が行われた瞬間、世界が分岐し、それぞれが現実として並列に存在する。そういった仮説ですね」


その言葉を聞いた瞬間、パルドフは静かに首を振った。まるで、誤解の根を一つずつ断ち切るように。


「まず、“有力”という言葉を外してくれ。多世界解釈というのは、あくまで可能性のひとつでしかない。しかも、それは形而下の世界――つまり、現実の操作可能な階層においては、標準解釈と大差がない。なぜなら……その選択をした本人にとっては、結果はひとつにしか見えないからだ」


言いながら、パルドフはポケットから白いハンカチを取り出し、無意識のように額の汗をぬぐった。歳月に刻まれた手が、かすかに震えている。


「我々が問題とするのは、重なり合った状態が“実際には”存在していながら、それをマクロの現実で認識できないという、この謎だ」


夕子は小さく頷き、静かに言った。


「……認識、ですか」


その言葉を繰り返す声は、ほんのわずかに震えていた。だが、それは恐怖でも拒絶でもなく、むしろ深く思索する者の声だった。


パルドフは、その反応を肯定と受け取り、続けた。


「そう。人間は、自分の五感で受け取った情報すべてを“常に意識している”わけではない。見えていながら、見ていないものがある。感じていながら、無視しているものがある」


「確かに……人は、脊髄反射――いえ、“慣性”による反射で生きている部分が多いです。意識せずにやり過ごすことばかり」


パルドフの口元が、わずかに緩んだ。


「そのとおりだ。人間の人生の半分以上は、無意識の反射で構成されている。そしてその最中に、現実がわずかに“揺れる”ことがあっても、人はそれに気づけない。なぜなら、それは“認識”されていないからだ」


夕子の表情に、またひとつ深い陰が落ちる。けれど、怯えるような気配はなかった。ただ、重たい現実を、静かに、正面から受け止めていた。


やがて彼女は問いを放つ。


「……でも、人は、他人と現実を共有することができます。それを記憶することも。もし認識が不確かであっても――信頼や共通の価値観があることで、ひとつの世界を“保てる”のではありませんか? 教授……それさえも、いずれ消えてしまうと?」


パルドフは少しのあいだ黙り込んだ。そして、苦い笑みを浮かべながら答える。


「もちろん、そうでないものもある。例えば、天文学だ。巨視的な存在ほど、その力は確かで、大きくなる。かつては人間のいる階層も、そう思われていた」


そして、わずかに声のトーンを落としながら、言葉を継ぐ。


「ただし、君が言った“他人と共有する現実”――それは、信頼が前提だ。もし、相手が嘘をついていたとしたら?」


そして、鋭い視線を夕子に向けた。


「……在城龍斗の妹は、数年前にこの施設に来た。そして、残念ながら去年、病気で亡くなっている。――さて、君は、一体何者だ?」


沈黙が、部屋を包んだ。



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