214 未来 倒錯
ラスト・ライブラリへの入場テスト。それは知性の高さを問うものではなく、むしろ内面の在り方を見透かす装置だった。
在城夕子と名乗る女――年齢は二十代後半に見えるその女性は、その不可解な試験を何の迷いもなく通過した。白く光るモニターに向かっていた彼女の瞳には、一切の緊張も、焦燥も浮かばなかった。ただ、僅かな興味を楽しむような微笑が、唇の端に浮かんでいた。
部屋の中は冷え切っていた。十台以上の端末が整然と並べられた無機質な空間。壁も床も、照明すらも白一色で、まるで医療機関の無菌室のような印象を与える。
やがて夕子は扉を押し開け、音もなく廊下へ出てきた。
扉のすぐ脇に立っていたパルドフに気づくと、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「コドロー博士、待っていてくださったんですね」
パルドフは一瞬だけ眉を動かし、すぐに無表情を装う。
「私はただの研究者だ。だが……在城龍斗の妹を名乗る人物に、まったく興味を抱かないほど退屈な人間でもない」
夕子はその言葉を冗談と受け取り、微笑の角度を深めた。
二人は並んで歩き出す。廊下は異様なほど長く、足音が反響するたび、何か得体の知れない存在に見下ろされているような錯覚すら覚えた。
「この通路、オート・ラインじゃないんですね?」
夕子が周囲に目をやりながら尋ねる。
「ここは利便性を追求する施設ではない。むしろ、我々のような座り仕事の多い人間の健康のためにもなっている。……まあ、ささやかな意地とも言えるがね」
パルドフの言葉に、夕子は静かに頷いた。
「それにしても、ラスト・ライブラリへの試験が、あれほど簡素なものだとは思いませんでした」
その言葉に、パルドフの顔が僅かに緩む。
「あれは知性の計測ではない。……あの試験は、対象者の思考形態、価値観、そして自己の認識方法を測っているんだ。どれほど頭が良くても、自分の存在理由を他者に委ねる者は――拒まれる」
それはかつて在城龍斗が語った言葉、「他我の種」を選別する試練。
「つまり、自らの意志で自己を創る者だけが、ここに入れると?」
「そういうことだ。君のように、あっさりとパスする者もいれば、尊大な態度で挑み、落第した理由も分からず苛立ちだけを抱えて帰る者も多い」
通路の奥は未だ遠い。500メートルは歩いただろうか。天井の照明は一定間隔で並び、ただ静かに光を落としていた。人工的な無音が、逆に耳を圧迫するように感じられた。
ようやく遠くに、金属質の扉が見え始めた時、夕子が声を低くして口を開いた。
「博士。……奥様とお子様のこと、心からお悔やみ申し上げます。あなた方がこのエリアを築くに至った事情も、私は理解しているつもりです」
パルドフはすぐには答えなかった。口元が僅かに歪み、感情の波が喉元まで押し寄せたのを抑え込むように、息を吐いた。
「……だが、あなた方が外の人間を切り捨て、自分たちだけで存続しようとしていることに――私は、ある種の恐怖を感じてもいます」
夕子の声は静かだが、決して平坦ではなかった。
パルドフは歩みを止め、ふぅ……と息をついた。
「世界の終わりを予測した学者や思想家を忌避し、感情に任せて暴走した者たちに家族を奪われたのは、私だけではない。……我々はただ、運よく逃げ延びたにすぎない」
その声には理性の重みがあった。しかし、夕子にとってその理性こそが――不気味だった。
◇
「まず右に三歩。……いや、君の歩幅だと三歩半だね。それから前に二歩。次は左に四歩……よし、その姿勢で止まって」
小さく呟くような声が空間に落ち、直後、彼女はまるで影のように侑斗の傍に現れた。
椿優香。かつて「枝の神子」として人知を超えた力を操った女。今はもうその力の大半を失い、ただの一人の女性に戻りつつある――はずだった。
「これで彼女たちからは、しばらく見えなくなる。おそらく……ね」
彼女の口元が歪む。自嘲と苛立ちが入り混じった表情だった。
「どのくらい時間が稼げる?」
侑斗が問いかける。声には焦燥を隠そうとする努力がにじんでいた。
優香は少し眉を寄せ、唇を尖らせた。
「十五分……いや、最近計算ミスが多いから、実際は十。これでも全盛期に比べたら落ちぶれたもんだよ。やっぱり恋愛は人をダメにするって本当なんだね」
その目が侑斗を見据える。
まるで彼に責任があると言わんばかりだった。
侑斗は思わず心の中で舌打ちする。この女、どうしていつも矛先をこっちに向けるんだ。
「で、次の手は?」
皮肉っぽく訊ねると、優香は呆れたように眉を上げた。
「……少しは自分で考えたらどうだい? 私がいなきゃ何もできないようじゃ困るんだけど」
どこか既視感のある口ぶりだった。西園寺史音――あの合理主義者と似た調子。だが、このなんちゃって女房には、もう少し情があると思っていた。
――そもそもユウの知性の大半を持っていったくせに、その上、持っていかれたこっちに文句を言うとは。
「……ああ、いちいち感情の波頭を立てて反応しない。ちゃんと考えてる」
そう言いながらも、侑斗の声にはわずかに棘があった。
その時、優香が鬱陶しそうに前髪をかき上げ、突然侑斗の右腕をつかんだ。力強いというより、必死さが滲む動作だった。
「動かないで。この時空では、どうやっても彼女たちからは逃げられない。唯一の出口は……君のサイクル・リングを通じて繋がっている、仮想世界だけだよ」
侑斗はわずかに身体を引いたが、すぐに元の姿勢に戻す。かつては自分の意志で二振りの剣を実体化できた。しかし今や、それらは確率の波の彼方へと失われていた。
優香の右手がかすかに光を帯びる。
かつての「枝の神子」の力も、「霧散師」の術も、もう彼女にはない。だが――残された一つの力があった。
葵瑠衣から受け継いだ、高分子結晶能力、意図した物質を別の相に変化させる、現実を侵食する異能。それが今、じわじわとサイクル・リングへと侵入していく。
「このリングを起点に、世界をひっくり返す。それで彼女たちから逃げる。理屈は簡単、実行は……まあ、面倒だけどね」
狂った現実。数々の常識を打ち砕いてきた彼にとっても、この計画は相当に異常だった。
侑斗は渋い顔をしたまま、優香を見つめた。
「世界をひっくり返したら、俺たちはどうなる?」
優香は肩をすくめる。
「戻ってこなきゃ、世界は救えない。だから、私たちの情報を世界面に残す。……一応、確認しておくけど。君、彼女たちに憐れみとか感じてないよね? 『女性は護られるべき存在』とか、そういう厨二病みたいな倫理観は持ってない?」
侑斗は静かに首を横に振る。そんな幻想は、少年期の終わりに壊された。壊したのは――他でもない、目の前の彼女だった。
「なら、いいや」
優香は小さく笑った。だが、その笑みはどこか壊れていた。
「この方法を使えば、この場を中心に半径一キロ以内の時空が歪む。濡れたティッシュを思いきり捻るみたいに、この城も、彼女たちの身体も、バラバラに引き裂かれる」
そのとき――。
金属質の音が鳴り、入り口から女が一人、侵入してくる。
狐面をつけた、真っ白な装束の女。幽霊のような動きだった。
次の瞬間、空間がぐにゃりと歪んだ。
音もなく、世界の布が引き裂かれるような感覚。
女の身体は、ねじれ、千切れ、断末魔を上げる間もなく四散した。