213、未来 草原
灰色の空が、どこまでも広がっていた。
雲が厚く垂れ込め、太陽の姿はどこにも見えない。昼間のはずなのに、世界はまるで夕暮れのように沈んでいる。風は強く、休む間もなく草原を撫でつけていた。
風に揺れるのは、丈が一メートルを超える草むら。草の穂先は風に押しなびき、まるで巨大な弦楽器の弦が揃って震えるかのようだった。
その中を──数十、いや百人近い女たちが整列して走っていた。
全員が、赤と白の巫女装束に身を包んでいる。顔には狐のように吊り上がった目を模した白い仮面。そして右手には、漆黒の球体。
風を切る音に紛れて、不協和音のような歌声が響いてくる。叫ぶような旋律は、まるで呪詛のようで、耳に不快な圧を残す。
──彼女たちは、こちらを追いかけてくる。
「……で、なんでこんなことになってんの?」
草むらをかき分けながら走る侑斗が、息も絶え絶えに叫んだ。
「世界が、私たちを追い立ててるんだよ」
横を駆ける優香は、ほとんど息を乱すこともなく、冗談めかして言う。
「これだけたくさんの女子に追いかけられるなんて、男冥利に尽きるでしょ?」
「少しも嬉しくないんだけど!」
誰が、あんな得体の知れない仮面の女たちに追われるのを望むだろう?しかも、全員揃って歌ってる。悪夢か地獄絵図か。
振り返ると、巫女たちの列が草原を割って迫ってきていた。速度はさらに上がっている。
「なぁ、優香。あれ、シニスやパリンゲネシアに比べたら雑魚だろ?なんとかできないの?」
「今の私はね、枝の神子でも、霧散師の始祖でもない。か弱き乙女だよ?」
「どこにも見えないな、か弱き乙女とやらが……」
冗談にもならない。息を整える暇もなく侑斗は言った。
「……強いて言えば、葵瑠衣の“相転移結晶”はまだ使える。でも、この状況じゃね。あなたの“水落移動”は?」
「俺一人なら使えるよ。……逃げてもいい?」
優香はわざとらしく速度を緩め、恨めしそうに言う。
「ああ、失敗したなぁ。こんなにいい女を手に入れておきながら、飽きたら見捨てる。どうせ、また次の女を探すんだろう?そんな男に人生を預けるなんて、見る目がなかったなぁ」
いやいや、そもそも預けられた覚えないけど?
無茶苦茶な言いがかりに呆れながらも、二人は草原を突っ切る。やがて、その先に異様な建物が姿を現した。
遠くからは分からなかったが、近づくにつれ、その建築物の大きさが明らかになる。
それは丘の上にそびえる、セピア色の古城だった。
朽ちかけた石造りの外壁に、ひび割れた塔。風にさらされ、時間に削られたその姿は、どこか荘厳で、そして不気味だった。
「入るよ」
気づけば優香が巨大な城門を開いていた。侑斗は無言でうなずき、後に続く。門は見上げるほどの高さがあり、重々しく軋んで開く。虚無の神殿よりも遥かに大きい。
「この城の塔に辿り着くには、数百通りの経路から正しい道を選ばなきゃいけない。だから、彼女たちに私たちを捕まえるのは無理だよ」
二人は石の階段を駆け上がっていく。経年で削れ、ところどころ崩れかけた段差を踏みしめながら。
優香の足取りは驚くほど軽い。その背中についていくのは、侑斗にとって拷問に近かった。
「……失敗したなぁ。こんな体力オバケと組むんじゃなかった……」
城の内部は、観光地にしてもおかしくないほど美しい。けれど、誰の気配もない。窓のない廊下、蜘蛛の巣が揺れる高い天井、黙り込んだ石の壁。
階段を上がるたびに、選ばなければならない分かれ道が現れる。まるで迷路。だが、優香は迷いなく進んでいった。
背後で鳴っていた巫女たちの歌声は、やがて遠ざかっていった。
そして──最上階に辿り着いた。
部屋は狭かった。六畳のアパートの一室よりも狭いかもしれない。窓が一つだけ、ガラスはなく、空がむき出しで広がっていた。
「おお、なかなかの眺めだ。君もせっかくだし、見てみなよ」
優香は窓の縁に手をかけ、身を乗り出して外を見下ろしている。
──ああ、俺、高所恐怖症なんだけどな。
狭い部屋の中で、ふと優香の肩が触れる。たったそれだけで、侑斗は場違いな反応をしてしまう。
何度も触れ合ったはずの彼女の体温が、なぜか今は違うもののように思えた。
夜、目が覚めた時──隣で眠る優香の姿が、まるで変わっていることがあった。表情が幼くなり、胸の形さえ変わっている。
──きっと、あれが葵瑠衣なんだ。
侑斗は、ガツンと床に腰を下ろし、大きくため息をついた。
ついこの前、追いかけられたのは、高層ビル街の空中歩道の上だった。あのときも同じように、仮面の女たちに追い立てられ、隠れた部屋に逃げ込んだ。
なぜ、こんなことが繰り返されるのか。
「……なぁ、なんで追いかけてくるのは女ばっかなんだ?男は混じってないのか?」
優香は、悪戯っぽく笑って答える。
「え、まさか。君、男に追われたいの?気持ち悪いなぁ」
その軽口に、侑斗は睨みをきかせた。
優香はふっと笑ったあと、少し真面目な顔になって語り出した。
「今ね、世界の形そのものが歪み始めてる。あの巫女たちは誰かに操られてるわけじゃない。無意識のうちに、“世界を整える”ために動いてる。普通の女の人たちさ」
「なんで女だけなんだよ?」
「それは──女のほうが、男より賢いから」
ふてくされた侑斗に笑いながら、優香は続けた。
「人間って、より高度な認識を得たときから、価値観をぶつけ合ってきた。でも、男性ってのはどうも結果をすぐに捨てようとするんだよね。偏った状態を選びたがる。対して女性は、結果を急がない。いろんな可能性を捨てない。だから、世界がバランスを崩しそうになると、本能的にそれを元に戻そうとする」
「……わからん」
「まあ、いいじゃない。難しく考えなくて」
優香の声は、まるで風の中に紛れるように、穏やかに響いた。
侑斗は石造りの小部屋の窓枠に手をかけ、顔を外へと突き出した。曇天の下、冷えた風が頬をなでる。太陽は雲の奥に隠れ、世界は淡い灰色の光に包まれていた。
彼は右手で片目を覆い、視界を絞る。距離感を誤魔化すための、癖のような動作だった。
視線の先、どこまでも広がる草原の地平線上に──異様な光景があった。
赤と白の巫女装束に身を包み、狐面をつけた女たちの群れ。まるで一つの意思を持ったかのように、整列した隊列で進んでいる。その列は、まるで風景の一部のように、地の果てまで続いていた。
眩暈がする。景色が歪み、足元がふらつくような錯覚に陥った。
「……君が、女性たちに本能的に嫌われている理由、知ってる?」
後ろから、優香の声が静かに届く。軽やかさの奥に、どこか刺すような真実味を含んでいた。
「君は“転創”された瞬間から、世界にとって“撞着のつかない存在”になった。調和を乱す者として、本能的に排除すべき対象と見なされた」
侑斗は窓からゆっくりと顔を引き戻す。黙ってその言葉を聞きながら、胸の奥に微かな鈍痛を覚えていた。
「でもね、レイとベルティーナがいたから、君は守られていたんだよ。二人は“強い肯定力”を持っていたから。彼女たちの存在が、女性たちの本能に働きかけて、君を中和していた」
「……それが今は、いない」
「うん。だから、本能は元に戻った。どう? 私以外のすべての女に嫌われるって気分は?」
「……別に」
そう答えたものの、心の奥では小さな引っかかりが残っていた。優香に出会うまでは、一生女性と関わらずに生きていくつもりだった。だが──
(亜希や史音、琳から嫌われるのは……さすがに、嫌だ)
わずかに顔をしかめた侑斗を見て、優香がくすりと笑った。
「冗談だって。全部の女なんて言ってない。木之実亜希ちゃんも史音ちゃんも、ああいう世界から押し付けられる本能には簡単に取り込まれない。大丈夫」
ふと、城の外へ視線を落とす。巫女たちの一部がすでに城門の中に踏み込んでいるのが見えた。仮面の集団がじわじわと建物を蝕むように侵入してきている。
本当に、ここまで来ることはないのか──。
「安心して。彼女たちがこの部屋まで到達するには、“経路積分”を使い切らなきゃならない。それには相当な試行が必要になる。今の彼女たちには、それはできないはず」
優香の声音が少しだけ真剣味を帯びる。
「それより、もっと建設的なことを考えよう。近いうちに、創造者、──技術者たちがやって来る。それにどう対抗するか、ってこと」
侑斗は鼻の下に指を当て、眉をひそめて思考を巡らせる。
もうシニスも、パリンゲネシアも、この世界にはいない。それなのに、まだ世界は不安定で、崩れかけている。
(これが、“創造者”たちの残した残滓だとしたら?)
彼らは、人間の“認識する力”を設計した銀河系最上位に近い階層の意思にすら対抗し得る存在なのか。
「優香……。お前はこの“クァンタム・ワールド”を創ったのが創造者たちだって言ってたけど、そいつら、一体何なんだ? 本当に神みたいな連中なのか?」
優香はゆっくりと窓から離れ、背後の壁にもたれた。冷たい石の感触に身を委ねながら、やや尖った声で応える。
「創られた地球の人々にとっては、神様のような存在だったよ。量子の海を生み出し、世界そのものの構造を設計した。物理法則すらも整えた存在。だからこそ、“神”と呼ばれることもあった」
「じゃあ……やっぱり、次元を超えて世界を調整できるような、高次の存在なのか?」
「ううん、違うんだ」
優香は静かに頭を振った。
「私も、この地球に“転創”されてから、ずっと彼らのことを考えてきた。でも結論はこう。彼らは別の次元から来た存在でも、量子世界から派遣された者でもない。もともと、この三次元世界に“技術者”として存在していた連中だよ」
侑斗は思わず眉を上げる。
「でも、それならなぜ、“銀河系の上位階層の意思”に逆らう? 同じ三次元の住人なら、もっと協調しててもよさそうなもんだけど」
その問いに、優香は腕を後ろに組み、ふと視線を上げた。
まるで、この部屋の天井の向こう──空間そのものを見透かそうとしているような眼差しだった。
「世界の“階層”って、見たでしょ。フォトスやパリンゲネシアと戦ったときに。それぞれの階層には意思がある。そして、世界の“括り方”が違う。創造者たちはこの次元にいる。でも、彼らの括り方は私たちとは違うんだ」
「同じ場所にいるのに、違う世界を見てるってことか?」
「そう。すぐ隣にいるのに、まともに干渉できない。“影”みたいな存在。それが彼ら」
──もう優香の中では、すでに答えが出ていた。
「……もしかして、それって“超対称性粒子”のことか? それを含む階層で世界を定義してる?」
優香はため息をついた。
「超対称性粒子は、たしかにダークマターの候補。しかも既知の物質の10倍もの質量を持つ。それを含めなければ世界の階層構造は説明出来ない。でも、階層構造はそれだけでも無い。例えばある種の空間の波や振動も階層を隔てる要素になり得る。創造者たちの階層がどのように括られているのか?は史音でも分からない」
侑斗は、なるほどと唇を噛んだ。じゃあ、創造者とは何者なのか。
優香は再び、窓際へと歩み寄った。そして、外の景色に目を凝らすようにして言う。
「私はね……思うんだ。彼らは、この銀河の中でも特殊な空間──オリオンの腕の端に、偶然生まれた存在だって。世界の階層構造との交わり方が、他とはまったく違った」
「彼らは余剰次元の操作もできる。でも、人間の思考回路を操作するには異常なほど手間をかけた。擬似地球をいくつも創って、知成力と存在力を分断して……」
「不器用だな」
「うん。そう。“それが彼らのやり方だっただけ、だから、彼らはそうした。それが彼らの限界であり──危険性でもある」
侑斗は目を閉じ、両目を右手で覆う。頭の中で優香の言葉をなぞるように、知識と感覚を結びつけようとする。
(つまり、特別なのは──知成力を得た人間じゃなく、彼ら“創造者”なのか?)
存在し続けるために、彼らは人間の思考形態そのものを変えようとしている。まわりくどいやり方で、執拗に。
「でも、絶対にやっちゃいけないことがある」
優香の声が、一段低くなる。
「“声の力”と“創造者”を直接引き合わせるのはダメ。それをしたら、壊滅的な事態が起きる。だから、私たちはどうしても──創造者をこの地球から手引かせなきゃならない」
その言葉が終わった瞬間──階下から、ざっ、ざっ、と激しい足音が響いてきた。
優香が窓の外へ身を乗り出す。そこには、仮面をつけた巫女たちの姿が。
「……あちゃー」
侑斗もすぐに状況を察する。
「あれ? ここに辿り着く可能性、ほとんど無かったんじゃなかったのか?」
優香は困ったように笑って肩をすくめた。
「うーん……“隠れた変数”があったんだよ。アインシュタイン風に言えば、ね」