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211、未来 一筋の闇

「人間は、どんなに努力しても完全に他人と価値観を共有することはできない。他人が何をどう感じているのか、その心を完全に理解することもまた不可能だ。量子の世界の『重ね合わせ』は、私たちの現実でも起こっている。一人ひとりの認識が現実を生み出し、認識が消えればその現実もまた消滅する――つまり、現実とは人間の認識の数だけ存在するものなんだ」


澄みきった史音の声が、静かな宇宙空間に響いている。


「それなら、認識の力がさらに高まった『知成力』とは何だろう?それは、自分の現実を他者の干渉から守る力だと私は思うんだ」


それは史音が長い旅路の果てに辿りついた、優しくも強い結論だった。ベルティーナはその史音の言葉が正しいことを、今、心から願った。


その想いは、存在が曖昧になりかけていた亜希にも届いていた。亜希は自分の意識が薄れゆく中で、史音の優しい言葉にかすかな人間としての感覚を取り戻していた。


自分自身を客観的に捉えると、身体から強烈なエネルギーが放射されていることを感じた。それは銀河の遥か彼方から届く叫びのようなエネルギー。自分たちの存在を許せ、と訴える悲鳴にも似た声だ。


『亜希さん、目を覚まして!人として戻ってきて!』


それは亜希の分身である零の必死な声だった。


『亜希、目覚めなさい!あなたが戻りたいと願う世界を私たちの願いに重ねて!』


ベルティーナの切実な声も亜希の心に響く。


『亜希、私はおまえに託したんだ。おまえがどんな姿になっても、自分自身で選択できるように。おまえが会いたいと思う人たちがいる世界を選ぶんだ』


史音の優しい声が、亜希の心の奥底で強く共鳴した。


「史音……零さん……ベルティーナさん……私はまだ、選択する強さがない。でも、あなたたちと重なる部分が少しでもあるなら、私は扉になる」


亜希の言葉が、静かに、しかし強く響き渡った。


「亜希さんと繋がった!」


零が安堵したように微笑みながら言う。


「信じられないほどの力……制御できなければ、この地球だけでなく太陽系すら吹き飛ばしかねない……」


ベルティーナは身震いしながら亜希の中から湧き出るエネルギーを見つめていた。


「階層を超えて生み出されるエネルギーの連鎖……哀れなダーク、あなたたちにはもともと何もできなかったのよ」


零がつぶやく。


声のエネルギーはアクア・クラインに支えられ、ベルティーナのカーディナル・アイズがそれを集約した。二人はフライ・バーニアの真下に、ダークに奪われる前の世界の情報を投影した。その膜に銀河のエネルギーを注ぎ込む。


やがて小さな円盤状の情報膜は急激に拡大し、破壊された世界を再構築していった。茶褐色の大地が蘇り、緑の植物が再生され、零とベルティーナが守りたかった人々が次々と再生されていく。


しかし、その光景はフライ・バーニアの直下で停滞する。


「私たちにここを去れ、と世界が求めているようですね……」


ベルティーナが地上を寂しげに見つめながら言った。


零は静かに頷いた。


「私たちが戻る場所は、もう無い。でも私たちには向かうべき場所がある」


「ええ……」


二人はしばらく沈黙し、その言葉の重みを噛みしめた。


「行きましょう。クァンタム・セルの窓へ。そしてこの力を量子の海に解放するしかありません。世界は、その創造主と共存できないのですから」


べルティーナが静かに言うと、零は決意の表情を浮かべた。


フライ・バーニアを破壊すれば、この地球は二度と他階層や他の仮創地球からの干渉を受けることはなくなるだろう。


二人はもう一度地上を見つめた後、静かにクァンタム・セルへと向かっていった。


ベルティーナは真空の瞳の翼を大きく広げ、零を優しく包み込み、静かに舞い上がった。空気が薄くなり、真っ青な地球が眼下に広がる高度二千キロの場所で、零は紺碧の輝石を静かに掲げる。輝石が輝きを増すとともに、フライ・バーニアは音もなく粉々に砕け散った。アクア・クラインの力が、存在の根本そのものを観測によって崩していく。


砕け散った氷の破片はキラキラと輝きながら、地上に届く前にゆっくりと蒸発し、空に溶けて消えていった。


やがて二人はクァンタム・セルの窓から量子の海の岸辺に静かに降り立つ。そこはすべてが曖昧に混ざり合い、可能性の波だけが押し寄せては引いていく場所だった。


二人は互いをじっと見つめ合ったが、言葉はなかった。

零は静かに両手を握り締め、祈るように口を開く。


「私たちを生み出した偉大な海よ、私たちは今、その力をあなたへ返します。どうか、受け取ってください」


ベルティーナもまた、自らの中に満ちるエネルギーを静かに解き放った。


「私たちが返すものと、あなたが私たちの願いに応えてくれるものが、どうか等価でありますように……」


量子の海はその言葉に応えるように、波を高く立ち上げ、二人を静かに飲み込んだ。

次の瞬間、二人は本来の姿――素の葛原零とイタリア貴族ベルティーナの姿に戻っていた。しかし、その姿は一瞬だけで、意識する間もなく世界から静かに消えていった。


…………

********


「亜希?どうしたの、ぼーっとして」


優しく問いかける凪の声に、亜希はハッとして目を瞬かせた。自分がなぜここにいるのか、記憶を辿ろうとしても思い出せなかった。


「私、いつからここにいるんだっけ?」


困惑した表情で問い返す亜希に、(なぎ)は苦笑混じりで答える。


「そうね、もう四時間くらいになるかな。亜希、私のところに来ると、いつもどこか遠くを見て叙情的なことばかり言うから。何を言ってるのかは正直わからないけど」


凪の言葉を聞きながら、亜希の心には微かな記憶が蘇りつつあった。ファースト・オフから戻った後、零との別れを受け入れられず、自分を慰める友人たちといるのが苦しくなり、自然と凪のアパートに足を運んだのだ。いや、まるでそこが最初から自分のために作られていたような感覚すらあった。


しかし、亜希にははっきりと記憶が残っていた。肉体を超え、巨大なエネルギーが自分を貫き、失われたものを永遠に感じてしまったことを。


その思いが胸を締め付け、涙腺が緩む。


「亜希……?なんでそんなに泣いてるの?」


驚いた凪の声が届くも、亜希の意識はぼやけていく。


零さん……零さん……ずっと私を守ってくれた零さん。

冷静で穏やかで、それでも一途で、いつも真っ直ぐに感情を示した零さん。


些細な出来事に無邪気に喜び、感動を隠せなかった零。嬉しい時は言葉よりも明るい笑顔でみんなを包み込み、棘のある感情すら素直に表現した零。


亜希の中で鮮やかに蘇る零の姿に、涙はますます溢れ出す。


「私の……私の大切な半分が消えてしまった……永久に戻らない……」


泣き叫ぶ亜希を凪はそっと抱きしめ、背中を優しくさする。


「大切なものを失ったんだね、亜希。あなたがそこまで悲しむなんて、本当に特別なことなんだろうね。でもね、そんなに泣けるってことは、亜希がまだ亜希でいられる証拠だよ」


そうだ、零はただ亜希の存在を守ったのではなく、「人間としての亜希」を守ったのだ。だから今、この世界はまだここにあるのだろう。


亜希は凪の温かさを感じながら、静かにその胸で涙を流し続けた。



ツっと涙が彰の頬を伝った。


「どうしたんですか、彰さん?目にゴミが入ったくらいで、そんなに泣くもんですか?」


琳がいつもの軽口を叩くが、その声にもわずかな震えが混じっている。


「いや……、なんか大切なものをすっかり忘れちまったような気がして……喪失感がすごくて……って、お前だって泣いてるじゃん!」


琳の両目からも大粒の涙が次々と溢れていた。


「あれ?本当だ……私、なんで泣いてるんだろう?」


涙を拭おうと鮮やかなピンク色のハンカチを取り出すが、その色はたちまち涙で暗く染まってしまった。胸の奥がぎゅっと締め付けられるように苦しい。


「ねえ……僕たちの周りに、すごく綺麗な人……人間離れしたような綺麗な人がいなかった?」


洋が目を赤く腫らしながら、呆然と問いかけた。


「亜希さんのことだろう?最近、姿を見ないけどさ……」


彰は必死に涙を堪え、声を絞り出す。


「えっ?亜希さんが最近来ないだけで、私たちこんなに泣いてるんですか?そんなわけない……」


琳はまだ止まらない涙をティッシュで拭き続けた。


「いや、亜希さんじゃなくて……もちろん彼女も絶世の美女だけど、もっとこう……女神みたいに神秘的な人がいた気がするんだ」


洋は混乱しながらも、その人の記憶が確かに胸の奥にあることを感じていた。怒った顔、笑った顔、真剣な顔――その透明な瞳が胸を焦がす。


「俺たち、何かを失ったんだ、きっと……時間のどこかに置いてきたんだ」


彰は胸を焼くような痛みをこらえながら呟いた。三人はしばらく沈黙し、その存在を思い出そうと必死だった。


「ねえ……」


沈黙を優しく破ったのは琳だった。


「今度、亜希さんを訪ねてみない?きっと……亜希さん、今すごく落ち込んでると思うんだ」


*******◇


フライ・バーニアの真下に広がる中央アジアの大地で、優香と侑斗は肩を並べて座り込んでいた。


優香の頬を、涙が静かに伝っている。侑斗が彼女の涙を見るのは何度目だろう。


「レイとベルは、自分たちの愛する人々を救うために、その身を投げ出した。そして人の心も形も失った私たちに代わって、再び私たちを創り直してくれた……」


優香の声は震え、どこか遠くを見つめている。


ゆっくり立ち上がった優香に、侑斗が力なく問いかける。


「零さんとベルティーナさんは、もう永遠に失われてしまったのかな?」


侑斗の言葉に、優香は一瞬唇を噛んだ。


「私たちにとっては、もう戻ってこない。でも彼女たちは、量子の海に還ったんだ。でも、すべてが終わったわけじゃない。私たちの戦いはこれからも続く。創造者たちとの戦いはまだ終わってない。いつまでも泣いている場合じゃない」


「そんなこと言っても……全身震わせてるじゃないか。優香はべルティーナさんとずっと一緒に過ごしてきたんだろう?俺だってずっと零さんと一緒だった……」


優香は悔しげに目を閉じた。


「だから何?」


「だから……今は悲しくていいんだよ。思いっきり泣いてもいいんだ」


その言葉に優香はとうとう堪え切れず、侑斗にすがりつくようにして号泣した。侑斗も彼女を強く抱きしめ、二人で声をあげて泣き続けた。


クァンタム・ワールドが閉じられた今、世界に残されたのは、自分たち二人だけなのだと、痛いほど感じていた。


シニスのダークは消え去り、フライ・バーニアも地球の大樹も跡形もなくなった。それでも空にはいくつもの地球が、まるで何かを待っているかのように静かに浮かび続けていた。



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