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19、過去 亜希—擁護の縮約

自分は何でできているのか?


19歳になるまで、ずっと考え続けてきた。


亜希は、常に置き去りにされる恐怖に囚われていた。

誰かに捨てられ、どこかへ放り出され、果てしない真空の中を彷徨う——そんな感覚が、ずっと亜希を支配していた。


見つめる先には、悲しみに沈んだ大きな瞳。

その双眸が私を遠くへ誘おうとする。


だが、すぐに後ろから、あの銀河のような声が亜希を引き戻す。

情景は、どちらへ向かうべきなのか分からない。

彼らは、一体私をどこへ導こうとしているのだろう。


高校最後の冬、学校の屋上にて、(なぎ)との会話・・・


「亜希、結局、美大には行かないんだ?」


高校を卒業する年の冬、冷たい風が頬を刺す放課後の屋上で、凪が尋ねてきた。

彼女の長い髪が風に舞い、午後の淡い陽射しを受けてきらめいている。


亜希は手すりに肘をつきながら、わずかに視線を落とす。

「凪ほどの才能は、私にはないよ。分かってるでしょ?」


凪は、不服そうに眉を寄せた。

「そうかな、全然分からないよ。亜希、この前のコンクールで金賞取ったじゃん。あんな絵、私には絶対描けない」


ああ、あれか——。


確かに、あれはやり過ぎた。

気がついた時には、もう完成直前だった。まるで別の何かが、自分の手を動かしていたかのように。


私は息をついて、肩をすくめる。

「あんなの、たまたまだよ。その前に描いたやつなんて、顧問に『子供の落書き』って言われたんだから」


凪は、それでも納得していない様子で、小さく首を振る。

「天才は、常に本物を出し続けるわけじゃない。ここぞという時に才能が出るんだよ。亜希には、ちゃんと才能がある」


ふと、強い風が吹きつけた。


冬の空気を切り裂くような突風。

私は、思わずマフラーを押さえたが——風は、私をすり抜けて、凪だけを襲った。


「……あと、運もいいよねぇ?」


髪をぐしゃぐしゃに乱された凪が、恨めしそうに睨んでくる。

私は、曖昧に笑った。


「運はともかく、成績はバラつきがひどいよ。学年トップだった次の学期には、全科目補習になったこともあるし」


それに、運動神経と容姿なんて、自分の手柄じゃない。両親の遺伝の賜物だ。・・なのかな?


——だが、私にはもう一つの”特別”がある。


それは、必要な時に発動するわけでもなく、狙って使えるわけでもない。

何かに集中している時、突如として現れる力。

そして、何の前触れもなく消えてしまう、厄介な力——。


選択肢の多すぎる人生と言えなくも無い。


「それで結局、地元の大学の文学部に行くって? 意味わかんない」


凪の言葉に、私は小さく息を吐いた。


それが、一番うまく手を抜ける道だから——。

そんな本音は、もちろん言えない。


スポーツ系の道を選べば、もっと難しくなる。

感情が入りすぎてしまうのだ。


とんでもない技術を発揮した後、バランスを取るように、わざと間抜けなことをして見せる。

そんな奇妙な処世術を、亜希はいつの間にか身につけていた。


「亜希って、誰とでも分け隔てなく接するから、誰からも好かれるし、男子にも人気あるのに……浮いた話は聞かないよね?」


私は軽く肩をすくめる。

「凪が思ってるほど、私の容姿は大したことないんだよ」


実際、ミスコンに推薦されたこともないし、都会でスカウトされた経験もない。

それに——私には、人間を男女で分けること自体に、あまり意味を感じない。


「でもさ、結構、女子の嫉妬買ってたよ? 怖い子たちにさ。トラブルに巻き込まれたこと、ないの?」


亜希は、一瞬だけ目を伏せる。


……ある。一度だけ。


だが、その記憶を口にする気にはなれず、亜希は笑ってごまかした。


「さぁ、こんな吹きっさらしの屋上から退散しよう」


私は、凪の背中を軽く押す。

彼女は怪訝そうな顔をしながらも、素直に階段へ向かって歩き出した。


私たちの周囲を、冷たい風が渦巻く。

凪の髪が、冬の空に舞い上がる。


私は、風を感じながら、そっと目を閉じた。


——私は、何でできているのか?


その答えは、まだ見つからないままだった。



亜希の、自分でもよく分からない秘密は、実はある男子に見破られていた。


彼と初めて会ったのは、地元の陸上競技大会。私は中距離走800mに出場していた。

スタートの合図と同時に駆け出すと、まるで短距離のような勢いで飛び出してしまう。トラックを2周する間に、私はふと気づいた。このままではまずい——速すぎる。もし全力で駆け抜ければ、世界記録が出てしまうかもしれない!


焦った亜希は、咄嗟に前のめりになり、バランスを崩したふりをした。意図的によろめき、転びそうになりながらスピードを落とし、最終的にドンケツの順位へ滑り込む。息を切らしたふりも忘れずに。

けれど、こんな不自然な走り方——果たして誰も気づかないだろうか?


レースを終えた私は、視線を浴びるのを避けるようにグラウンドの隅へ向かい、タオルを頭からかぶってしゃがみ込んだ。胸の奥で鼓動が速くなる。見られていないだろうか? 誰も気にしていないだろうか?


「息くらい切らしておけよ。本当に怪しまれるぞ」


突然、低めの声が聞こえた。驚いて顔を上げると、ランニングウェアを着た男子が立っていた。手には冷たく濡らしたタオル。どうやら私に差し出しているらしい。


私は彼を見つめる。自分より年下に見えるが、どこか余裕のある立ち振る舞いだった。彼の言葉にハッとする。そうだ、私は800mを走ったのだ。周りの選手は皆肩で息をしているというのに、私だけが平然としていたら、不自然に決まっている。


「ありがとう……」


亜希はぎこちなく礼を言いながらタオルを受け取る。だが、彼はまだ顔を見せずに続けた。


「まあ、以前よりは大分マシにはなったけどな。アンタの小中学校時代の塗りつぶしてきたトンデモエピソードは酷かったからな。とにかく、いろいろ油断しないことだ」


亜希は息を呑んだ。——何で、この人はそんなことを知っている?


動揺した亜希は、思わず大きく息を吸い込んだ。そして、結果的に息切れをする羽目になった。


***


競技が終わり、自分の学校の仲間のもとへ戻ると、女子たちの視線が一斉に亜希に注がれた。しまった。今回は誤魔化せなかったかもしれない。


「亜希、葛原(くずはら)くんと知り合いなの?」


「……は?」


亜希はきょとんとして、彼女たちの質問を反芻する。葛原? 誰のことだろう?


「……ええと、そのクズ虫くんというのは?」


私の問いに、なぜか全員が呆れたような表情を浮かべる。


「さっき後ろ向きに慎ましくリア充してたでしょ? 葛原修一(くずはらしゅういち)くんと」


比較的仲のいい女子が説明してくれる。


——ああ、さっきのあの男の子か。


葛原修一。名前を反芻する。彼は亜希が知らない「自分のこと」を知っている。自分の秘密を知る彼に、亜希は猛烈に興味を持った。もう一度、今度はちゃんと二人きりで話してみたい——そう思った。


だが、その機会は訪れなかった。


後で聞いた話によると、彼は一年生ながら地元の体育会系スターらしい。忙しくて、亜希に構っている暇などないのだろう。



そして、次に彼に会ったのは、あの一度きりの出来事のときだった。


***


昼休み、突然教室のドアが開き、一人の女子がずかずかと入ってきた。


「ねえ、木之実亜希さん」


笑顔ではあるが、どこか圧のある視線を向けてくる。亜希は机に突っ伏していた頭を上げ、その子をぼんやりと見つめた。誰だったか——いや、思い出したくないからこそ、忘れてしまったのかもしれない。


彼女は一方的に話し始めた。何を言われたんだっけ? そうそう、やたらと褒められ、煽てられたのだ。服のセンスがいいだの、使っている化粧品が気になるだの、根掘り葉掘り質問攻めにされる。


正直、面倒くさい。


適当に相槌を打ちながら話を流していたが、ふと気づくと、どうやら肯定してはいけないことを肯定してしまったらしい。


「はあ、何それ? 嫌味?」


突然、彼女の表情が険しくなった。


「ごめん、よく聞いてなくて。きっと頷いちゃいけないことに頷いちゃったんだよね。ゴメン……なさい」


亜希が素直に謝ると、それがさらに彼女の逆鱗に触れた。


「よく聞いてなくてって、自分で言う!? ああ、そうですか? 天下の木之実亜希さんには、アタシの言うことなんかどうでもいいですか?」


天下かどうかはともかく、どうでもいいというのは間違っていない。


険悪な空気に包まれる教室。クラスメイトたちの視線が亜希たちに注がれる中、遠くから控えめな声が飛んできた。


「……○○ちゃん、お昼終わりだよ!」


クラスの隅で様子を窺っていた女子が、彼女に声をかける。


彼女は憤然としたまま、後ろを向いて去って行った。


そして次の授業のあと、クラスの女子がそっと耳打ちしてきた。


「あの子、成績優秀で、去年のミスコン優勝者なんだよ。でも成績は何回か亜希に抜かれるし、男子のみ解禁のSNS投票でも亜希に負けるし……それで、ずっと亜希のこと意識しまくってたんだよ」


「……そうか」


勝手に意識しまくらないでほしい。はた迷惑だ。


「それでさ、結構ガラの悪い連中と付き合ってるって噂もあってね。だからこそ、余計に亜希に勝てないんだけどさ。とにかく気をつけなよ」


正論の通じる相手ではないらしい。頭は良さそうなのになあ、勿体ない。


とはいえ、ここまでは亜希にとって経験のあるパターンだった。この手の出来事のあと、実際に何か被害を受けたことはなかったからだ。


しかし——今回は違った。


***


何日か経った放課後。


帰り道を歩いていた亜希は、突然、後ろから両腕を掴まれた。


振り返る間もなく、細身の女子二人に腕を引かれ、人通りの少ない薄暗い路地へと連れていかれる。


そして、その先にいたのは——例の彼女。


彼女の横には、直視するのも憚られるほど柄の悪い男が二人。


「ええと……これはどういう冗談なのかな?」


いつもの口調で尋ねた瞬間——


バチンッ!


鋭い音が響く。頬に熱が走る。


「……っ、いったいなあ」


親にもぶたれたことないのに。


「あんたのそういう態度、いちいちムカつくのよ。無邪気で無垢そうな振る舞いが……とても、とても癇に障る」


彼女は獲りつかれたように、亜希の襟を掴みながら言った。そして、背後の男たちに向かって低く命じる。


「しばらく学校に来れないような顔にしてやって」


——さすがに、これはヤバイかもしれない。


だが、亜希が怯えた表情を浮かべると、彼女が嬉々とした笑みを見せるのが分かった。


嫌だな、こういうの。


そのとき——


「やめといたほうがいいぞ、お前ら。死にたくなければ……というか、消えたくなければ」


静かながらも鋭い声が響いた。


亜希の背後から現れたのは、地元のスター、葛原修一くん。


なんなんだ、この展開は。


阿呆面1号と2号が、彼に向かって歩み寄る。


「葛原修一!? ちょっと、あんたたち待って……!」


彼女が焦ったように声を上げるが、二人の男には届かない。——しかし、彼らの拳が修一に届くこともなかった。


ひょい、と阿呆面1号の拳をかわしながら、彼は面倒くさそうに言う。


「悪いな。鬼の霍乱っていうか、ありえないことが起こってさ」


ドンッ!


阿呆面1号の腹に、修一の蹴りが入る。男は腹を抱えてうずくまった。


「姉貴が高熱で寝込んでるんだよ。なのにこんな時に厄介ごとに巻き込まれるとか……普段、どんだけ危なっかしい人生歩んでんだよ、あんた」


阿呆面2号の首の後ろに、修一の手刀がストンと落ちる。


男たちは崩れ落ち、亜希を連れてきた細身の女子二人は怯えたように立ち尽くした。


「お前ら、責任持ってこいつら運んで帰れ。重たくても我慢しろ。それから、今日のことは忘れろ。二度と木之実亜希に関わるな。姉貴の熱が下がる前にさっさとやれ。でないと、本当に死ぬぞ」


彼の低い声に、彼女たちは震えながら頷き、倒れた男たちを引きずるようにして去っていった。


***


「ありがとう」


小さく礼を言うと、葛原は肩をすくめた。


「気にしなくていい。これは俺の役割……っていうか、仕事みたいなもんだ。でも、あんたも少しは自重しろよ。自分がどんな存在なのか、たまには考えてみろ」


そう言い残し、彼は静かに去っていった。

********


そして今日、キャンパスを離れ、亜希は公園の木陰で静かに本を読んでいた。


木漏れ日がページに落ちるたび、文字の影が揺れる。風がそよぎ、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。心地よい午後だった。


——そんなときだった。


「木之実亜希さん!」


不意に響いた大声に、亜希は顔を上げる。


隣の駐車場、青いスバルの横で、葛原修一がこちらを見ていた。珍しく慌てた様子で、手を大きく振っている。


「急いでこっちに来てくれ!」


急いで? 何かあったのだろうか。


とはいえ、亜希はすぐに駆け出したりはせず、本を閉じて静かに腰を上げた。バッグに本をしまい、ゆっくりと車のほうへ向かう。


スバルの1メートルほど手前まで来たとき——


バタンッ!


運転席のドアが勢いよく開いた。


そして、その影から現れたのは——


見たこともない、けれどどこか気品を感じさせる女性だった。


透き通るような白い肌、端正な顔立ち。そして、何より目を引いたのは、その瞳——まるで宝石のように美しい。


亜希より少し背が低いが、存在感がある。


女性はまっすぐ亜希の前に立つと、静かに名を呼んだ。


「……木之実亜希さん……」


その声には、何か特別な意味が込められているように思えた。


そして、彼女は右手を伸ばし、亜希の左手を軽く握る。


——次の瞬間。


バチンッ!


鋭い音が公園に響いた。


「……っ、痛っ……!」


右頬に強烈な衝撃が走る。


亜希は反射的に頬を押さえた。


——親にもぶたれたことがないのに。


燃えるような瞳で、女性はまっすぐ亜希を見据えた。


「貴女は……なんでこんなところにいるの?」


低く、けれど確かな怒りを含んだ声だった。


困惑する亜希の隣で、修一が小さく息をつき、申し訳なさそうに言う。


「悪いな。乱暴な姉貴で」


——姉貴?


驚く間もなく、女性は一歩後ろに下がると、静かに呟いた。


「……もう私は、貴女を遠くから守るのはやめる」


その言葉には、決意と、何か別の感情が滲んでいた。

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