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203、未来 私の世界

侑斗を殴り、史音の前で初めて激情をさらけ出した亜希は、自宅の自室でぼんやりと天井を見つめていた。薄い蛍光灯の光が殺風景な部屋をぼんやりと照らし出し、壁に映った影がゆらゆらと揺れる。その歪んだ影は、亜希の心の中の曖昧さを映しているようだった。


あの日、優香が海辺で見せた、あの懐かしい地球の情景。それを目にした瞬間から、亜希は自分の周囲を自由自在に操る力に目覚めた。視界に捉えたものを自在に変化させ、その認識を他者と共有する――そんな非現実的な力に。


以前、パリンゲネシアにいた頃、史音が言っていた。

「量子の世界からデコヒーレンスの壁を超えて結果を導き出す力が認識力。そして、その実在を他人に共有させる力が知成力だ」

それは人間と同じ階層にいる生き物すべてが持つ普遍的な能力であり、零さんやベルティーナさんは自分たちの世界の稀薄な実在を維持するため、その力を極限まで高めたのだという。


しかし、完全に目覚めてしまった亜希の知成力は、あの二人を遥かに凌駕していた。

――それは結果として、銀河を巡る変化の嵐が、亜希を生み出すために選んだ必然の道だった。


零は、銀河の声の力によって無意識のうちに亜希を創り出した。彼女が命を懸けて愛した人を自らの手で葬った慚愧の念が、その感情の一部を切り離し、銀河の声の力を呼び込む器となった。


銀河の彼方から響く、見知らぬ人々の悲痛な叫びを受け止めるためだけに生まれた私。

だが、なぜそれが「人間」の形でなければならなかったのか。そもそも、自分に自由意志はあるのか、それとも自由だと思わされているだけなのか――亜希の胸の奥には、疑問が重く沈殿していた。


数少ない友人さえ、自分を創り出すための道具だったのだろうか。亜希はその考えにゾッとして頭を振った。


松原さん、彰くん、琳――それぞれ仲が良いとはいえ、価値観も考え方もまるで違う。亜希自身の価値観を都合よく誘導するために存在しているとは、とても思えない。


だとすれば、人間としての視点を持たされた自分を通じて、この世界を観察しようとする俯瞰した「誰か」の意思があるとしか思えない。


それは誰なのか。


ユウ・シルヴァーヌ――

侑斗と優香の前世の存在――


亜希がそこまで考えた瞬間、不意にスマートフォンが振動し、小さな電子音が静寂を裂いた。画面に琳からのメッセージが浮かび上がる。


『明日の晩、ファースト・オフに集合。零さんのお願いなので絶対に来てください』


亜希は静かにため息をついた。

そうか、そういう順番なのか――自分の役割が最後だというのなら、先に役目を果たす者がいるということだ。


***


「どうにか、木之実亜希を説得できたみたいだね」

旅客機の国際線に併設された狭いカフェラウンジで、優香はアイスコーヒーをかき混ぜながら、どこか寂しげに呟いた。


窓の外には無限に続く深い夜空が広がり、微かな振動が床を通じて伝わってくる。機内特有の密閉された空気が、ふたりの間の微妙な緊張感を増幅していた。


あれはほとんど史音の功績だった。

いつもの軽口ではなく、本音でぶつかった史音の言葉が、亜希の選択を定めさせたのだ。


「優香は、亜希さんが史音を選ぶ可能性も考えていたのか」

侑斗は問いかける。自分自身、何が正解なのかはまだ分からなかった。


「それもあるけど……むしろ心配していたのはあなたの方だよ」

優香は視線を落とし、氷が溶けかけたグラスを見つめる。


「俺の方?」


「ええ。あなたが私じゃなくて、亜希ちゃんを選ぶ可能性も考えてた」

優香は自嘲気味に唇を歪め、冗談とも本音ともつかない言葉を続ける。普通の男なら怒るところだろう。だが侑斗はそんな気持ちにはなれなかった。


「史音が言ってたよ。俺や亜希さんが恋愛感情を持てないっていうのは、ただの思い込みだって」


優香は残りのアイスコーヒーをゆっくり飲み干し、肩をすくめて笑った。

「そう、それはあなたと亜希ちゃんがお互い惹かれ合っているのを否定するための口実だって、史音ちゃんは気づいてたんだよ」


あまりにも無邪気に言われて、侑斗は困惑するしかなかった。


そもそも、恋愛感情ってなんなんだろう? その定義は?


そんなことを考える人間は、この世界にどれくらいいるだろうか。侑斗にはまるで想像もつかなかった。


優香は微かに微笑んだ。

「感情は全部、ただ言葉で定義されているだけだよ。自分に沸いた感情を愛だと思った瞬間に、それが愛になるの。だから、愛の形は人の数だけ存在するんだよ」


***


金曜クラブが開催される、久しぶりのファースト・オフ。

テーブルにはマスター一人で作ったとは思えないほど豪勢な料理が所狭しと並んでいる。

零さんの依頼で、どこからか取り寄せた本格的なイタリア料理に、マスターが得意とする豪華なデザートが彩りを添えていた。今日は特別に貸し切りだ。


メンバーはいつも通り――零さん、松原さん、彰くん、琳、亜希。そして、侑斗の代わりに修一くんが久しぶりに顔を見せていた。


「すごい料理だね。特にデザートは、マスターの巧みな手腕が全開だね」

洋が嬉しそうに声を上げると、マスターは照れくさそうに笑みを浮かべ、額の汗を拭った。

亜希はそんな穏やかな光景を眺めながら、胸の奥に淡い寂しさを感じていた。


「今日は全部、姉貴の奢りだ。遠慮なくやってくれ」


皆の背後から、修一くんがよく通る声を上げた。その声音はいつも通り明るいようでいて、どこか寂しげな余韻を帯びている。

一瞬、みんなの動きが止まった。これまで誰かが全員分の会計を申し出ることなど、ただの一度もなかったからだ。資産家の令嬢である琳はともかく、いつも生活に追われていた侑斗でさえ、自分の分は決して他人に任せなかった。


ふと亜希が顔を上げると、普段は感情をあまり表さない零さんが、今日は珍しく楽しそうに微笑んでいる。その姿を見て、亜希の胸に微かな不安がよぎった。


「ほら、みんな、たくさん食べて、たくさん話しましょう」


零さんに促されて、一同はようやくテーブルの上の料理を食べ始めた。美味しい料理を前にしているはずなのに、いつもよりも会話は少なく、どこかぎこちない空気が流れている。


ふと視線を窓の外に向けると、亜希の胸がひりりと痛んだ。変貌してしまった外の世界は、かつての平和な記憶を残酷なほど鮮やかに思い出させる。


――亜希はそっと目を閉じ、心の中で周囲の景色を書き換える。


瞬間、窓の外には懐かしい夜景が広がった。峠の中腹に位置するファースト・オフから見える、静かな光の海。皆が当たり前に信じて疑わなかった、あの日の穏やかな世界だった。


「侑斗さんがいないと、やっぱりちょっと物足りないですねぇ」


琳がふと寂しげに呟いた。亜希は一瞬、侑斗の姿を描き出そうかと手を動かしかける。だがその腕をそっと零が掴んで止めた。


「亜希さん、私の分身。この世界には、もう二度と戻らないものがあるの。それを受け入れて。私はこの地球に来て、ようやくその意味がわかった。でも、失った代わりに手に入れたものもたくさんある」


亜希は零の言葉に静かに従った。初めて出会ったとき、突然殴りかかってきたこの人の言葉を、亜希はずっと守ってきた。だがこれからは、いったい誰に従えばよいのだろう。


「侑斗くんはあの綺麗な人ともうこの国を出ちゃったのかなぁ。僕ももう一度会いたかった。彼の、一人で悩んで一人で納得するような性格が僕は好きだったけどね」


洋は軽い口調で言うが、亜希は知っていた。侑斗のことを被害妄想の塊だとか、欺瞞に満ちた存在だと陰口を叩く者たちがいたことを。そのたびに、亜希自身が心をすり減らし、侑斗を慰めたものだった。


「彰さんが悪いんですよ。侑斗さんを突き放すような言い方するから」


琳が挑発するように笑った。いつもの皮肉っぽい口調だ。


「悪かったな、でもあれで侑斗は自分の道を決められたんだ。あいつが今日ここにいないのは、あいつ自身の決断だよ。今ごろ、あの美人の姉さん女房と仲良くやってるさ」


彰くんは特大のピッツァを乱暴に噛みちぎりながら吐き捨てるように言った。


そんな彰くんに、零が静かに近寄り、小声で話しかける。


「彰、どうか侑斗を許してあげて。できれば、優香も。元々一つだったあの二人は、何を捨てても、ああなるしかなかった」


彰くんは静かに俯き、零の優しい手が肩に置かれたまま、掠れた声で答えた。


「許すとか許さないとかじゃないよ、零さん。俺たちは誰も傷つけずに前に進むなんてできないんだ。あのお人好しの侑斗が俺の憎しみさえ受け入れた。いつも現実を受け入れられなかったあいつが、初めて世界との付き合い方を学んだんだよ」


鳳ハルカを死なせた優香を許さない、という彰くんの痛ましい感情。それすら受け入れた侑斗はようやく世界の流れに乗れたのだろうか――亜希はぼんやりと考えた。


やがて食卓の雰囲気は少しずつ和らぎ、それぞれが他愛ない話題を投げかけ合った。


琳が冗談めかして彰に「ハルカの代わりになりますよ」と言うと、彰は珍しく穏やかに断り、松原さんに「お嫁にして下さい」と軽口を叩いた琳に、洋は困惑しながら身分の違いを持ち出して拒んだ。琳がそれでも引かずに小鳥谷家を捨てると笑って宣言すると、彰が「いい加減にしろ」と頭を小突く。


みんな、楽しそうだった。零さんでさえ、ケーキのクリームを頬につけて無邪気に笑っていた。


だがその笑顔を見るほどに、亜希の胸は苦しくなった。零が遠くへ行ってしまうのだと、心が痛いほど感じ取ってしまったから。


亜希は静かに席を立ち、皆の視線を避けて零に近づいた。


「零さん……」


周囲には聞こえないように小声で話しかける。


「本当に行っちゃうんだね。今日が最後なんだね」


零は優しく微笑み、亜希の瞳をじっと見つめた。


「最後にはならないよ。あなたがいる限り、私は消えたりしない。だから――」


そこまで聞いて、亜希の感情が限界を超えて溢れ出した。喉元が焼けるように痛み、止めようとしても嗚咽が止まらない。


「嫌だよ……零さんがいなくなったら、私はどうすればいいの? 侑斗もいないのに、私だけ置いていかれるなんて耐えられない。お願い、連れて行ってよ!」


亜希はその場にしゃがみ込み、泣き崩れた。慌てて駆け寄ってくる仲間たちが、戸惑いながら亜希を慰める。


「亜希さん、ここにいる皆が、私があなたに残せる全てのものよ。私が手に入れたすべてをあなたに託す。それでは、不服?」


零の言葉に、亜希は涙を拭った。


「不服じゃないよ。でも零さんがいない世界なんて、考えられない……」


零はそっと亜希を抱きしめ、耳元で囁いた。


「ならばあなたは、自分が心から望む大切なものが何かを決めておきなさい。あなたは最後の選択者。私たち全ての世界を救う切り札――。私はあなたを信じているから」

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