197、未来 渚にて1
灰色にくすんだ空は、その青さを完全に失っていた。潮の匂いには微かな錆の香りが混ざり、まるで世界そのものが朽ち果てつつあるようだった。砂浜には打ち捨てられた貝殻や流木が無秩序に散らばり、どこか死を思わせる静謐さが漂っている。
亜希はその約束の場所へと一歩ずつ近づいていた。胸の奥で不安がざわめき、心拍が早鐘のように鳴り響く。
正直、彼女と二人で会うのは怖い。
『すべてを話す』――彼女の言うすべてを知ることが怖い。
自分の実存が否定されることが怖い。積み重ねてきた価値観が、あの冷ややかで諧謔を帯びた口調で破壊されることが怖い。
亜希が知る椿優香は、そういう女だった。
やがて防波堤に沿って歩き続けるうち、優香の姿が視界に入る。肩まで伸びた黒髪を風に靡かせ、彼女は波立つ海を静かに見つめている。美しい横顔には以前のような冷たい超然とした様子は見えなかった。
そして空には、幾つもの地球の映像が不気味なほど鮮やかに浮かんでいた。潮汐力を持たない、虚ろな天体――それはそれは創造主が築いた虚構の象徴であり、終末の前兆だった。
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二か月前、日本へ向かう飛行機の中で亜希は侑斗にほとんど話しかけなかった。だが、胸の内で呪詛のような言葉が何度も巡っていた。
なぜ優香と婚約などしたのか。一度拒絶した彼女をなぜ再び受け入れたのか。
かつて未熟な精神で優香に憧れ、打ちのめされながらも逡巡を超えて成長していった侑斗が、女性の容姿にも性格にも興味を持たないあの侑斗が、なぜそんな決断をしたのか。
亜希の苦々しい言葉を、侑斗はただ黙って受け止めていた。
「昔のことはどうでもよくなった。優香は俺を自分の一部として求めたわけじゃなくて、最後にやるべきことを共にするパートナーとして必要としてくれたんだ」
侑斗は淡々とそう語ったが、亜希には結局彼が優香に利用されることを甘受したとしか思えなかった。あの異空間で侑斗は、亜希によって今までにない強大な力を与えられたのだから。
日本に着くと、二人はいったん別行動を取った。侑斗は自分の両親や兄弟に婚約のことやこれからの覚悟を伝える責務があった。亜希もまた久しぶりに両親を訪れたが、彼らは相変わらず彼女に対し距離を取った。当然だった。彼らにとって、自らの遺伝子が生んだ、よりどころのない異端な娘を受け入れるのは困難だったのだ。
亜希を創ったのは零と何かなのだから。
数日後の金曜日、亜希と侑斗はファースト・オフに集まった。
零は微笑みを浮かべ、亜希と侑斗をそれぞれ力強く抱きしめた。
洋も彰も琳も、地球がまだこんな黄昏た世界になる前のことを覚えていた。零の影響下にあったからかもしれない。
侑斗が優香と婚約したことに洋と琳は驚き、彰は眉間に深い皺を刻んだ。零は一言だけ、
「そういうふうにしかなれなかったんだね、あなた達は」と、悲しげに口元を歪めた。
「侑斗くんを連れていった時のあの人は、とても洗練されて綺麗だったけれど、ひどく儚げでやつれた人に見えたよ。あの人が以前のように、自分の都合だけでものごとを考えているとは思えない」
洋が重い空気の中、侑斗を庇うように言葉を添える。
「私は全然納得いきませんけど、侑斗さんが良いんなら構わないんじゃないですか? 零さんなら分かるけど、亜希さんはいったい侑斗さんの何なんですか? お母さんですか?」
琳が挑戦的に言い放つ。その言葉に亜希は苛立ちを隠せない。
私は侑斗のお母さんだよ。ずっと面倒を見てきたんだから。
沈黙を守っていた彰が突然立ち上がり、鋭い視線を侑斗に向ける。
「俺も何も言わない。だが、侑斗。あの華奢で綺麗な女はどうしても許せない。永遠に呪ってやるつもりだから、それだけは覚えておけ」
彰は怒りを隠さずに言い切り、足早に外へ出て行った。鳳ハルカが消えた理由の起点が、優香にあることを許せなかったのだ。
彰が去った後の重い沈黙の中、亜希は自らの孤独に耐えられなくなる。
私がおかしいのだろうか?亜希は自己不信に陥る
俯いていると、侑斗が意を決したように立ち上がった。
「亜希さん、亜希さんが駄目だって言うなら俺は……」
「やめなさい」
侑斗の隣に座っていた零が、彼の左手を掴んだ。
「あなたは彼女と行くべき。亜希さんにどれだけ恩があっても」
零はゆっくりと立ち上がり、背後から亜希を強く抱き締めた。かつて侑斗を抱き締めた時のように。
「ごめんね、亜希さん。でももう私に出来ることは少ない。これからはあなたが私のすべて。私は本当のことを何も知らないから」
亜希は震える声で問いかける。
「零さん、どうして私を創ったの? あなたは自分の何を切り離して私を創ったの?」
本当に史音のいう通りなのか?愛情以外を切り捨てた存在が私だとしたら私は人間らしい感情を持っていない真っ当な人間では無いというのか?
「ごめんなさい。それも私自身分からないの。だからそれも彼女に聞いて」
…………
そして今、亜希は、渚に佇む優香と対峙していた。
「約束通り、来てくれたんだね」
海を静かに見つめていた優香は、亜希の気配に気づき、ゆっくりと振り返った。肩まで伸びた艶やかな黒髪が、夕暮れの風に静かになびいている。
正直、優香と二人きりで会うことには躊躇いがあった。彼女が幾つもの名前や顔を自在に使い分け、自分に繋がるあらゆる事象を把握しているかのように振る舞う姿を見るのは、亜希にとって癪に障ることだった。
「ええ、私は貴女に会いに来た。あなたから弁証法で全てを聴きだすために」
亜希は表情を硬くし、感情を抑えた声で答えたが、優香は少しも動じる気配を見せない。
「最近は執筆活動をしていないんだね。貴女のエクリチュールはいつも興味深かったのに」
執筆はしている。ただ、発表を控えているだけだ。
「世界がこんな風になってしまったからね。もう私が書いたものなど、誰も読もうとは思わないでしょう」
亜希は冷え切った声でそう返しながら、優香の背後に広がる異様な空を見上げた。そこには無数の色彩を持つ地球が、蜃気楼のようにゆらゆらと浮かんでいる。
「ああ、あの空は滑稽だね。陳腐ですらある。シニスのダークがこの階層に撒いた最後の一滴というところかな。ちなみに、西に沈みかけている紺色の地球が、レイや私、彼がいた世界。ただの幻影だけど、本能的に懐かしく思ってしまう」
まるでシニスが追い詰められているかのような口調に、亜希は違和感を覚える。この世界を修正しようとしているのは、まさにシニスではないのか。
「あなたは本当に何でも知っているの?」
亜希の問いに、優香はわずかに視線を上げて答えた。
「多分、この地球にいる誰よりも、あらゆる階層世界に存在するどんな存在よりも、正しく状況を理解しているつもりだよ。それが私に与えられた役割だから」
「世界の全ての仕組みを理解するのが、あなたの役割……」
結局のところ、優香は変わったように見えても盤上の外にいて、他人を駒として扱う人間に変わりはなかった。
「あんたはいつもそうやって、寓意のようにすべてを話す。いつだって一方的だ。正直、あんたの言葉は何一つ信じられないよ」
亜希は拳を握り締め、吐き捨てるように言った。
優香は少し姿勢を正し、静かに亜希へ一歩近づいた。
「信じられないか。まあ、初めて会った時から私は姿を偽り、貴女に見破られたからね」
そうだ。八年前、この女はまるで輪郭の曖昧な幻影のようだった。
「今のあんたははっきりと見えるよ。美しいけど、どこか不確かで空虚だ。昔みたいな訳の分からない存在じゃない。ただ、酷く痩せて華奢すぎて、正直、貧相に見えるけどね」
優香は微かな苦笑を浮かべる。
「相変わらず手厳しいね。でもそれでいい。この姿は、八年前に彼が見ていた私の姿だから。確かに随分やつれたけれど、望んだ通りにはなれたようだね」
この人は望むままに姿を変えられるのだろうか。世界中の女性の敵だと、亜希は皮肉を込めて思った。
「レイがあんなに美しいのも、誰かのためにそうなろうとしたからだよ」
それはなんとなく理解できる。零さんは、そういう人だった。
「あなたにとっては零さんさえ、その純粋な愛情さえも、道具だったんだよね。他人の感情さえも利用した」
優香はしばらく言葉を失い、やがて頬を伝う一筋の涙をこぼした。亜希は思わず息を呑む。
「やはりこの景色は嫌だね。落ち着かない……。今この瞬間だけ、私たちが知っている本来の地球の姿に戻そう。貴女が一番望む形に」
優香が右手を伸ばし、亜希の前でそっと指を広げると、世界が一瞬でその姿を変えた。深く澄んだコバルトの空、夕陽に照らされた赤い雲、そして青くどこまでも広がる海。
「ただの暗示だけどね。こういう戯れは、私にもまだできるんだ」
暗示でも幻でも構わない――亜希の胸に強い感情が込み上げた。これが真実であったらと、切に願わずにはいられなかった。
「貴女の言う通り、私はずっとあなたを道具だと思ってきた。あなたも、彼も、零もベルティーナも……すべてが目的を果たすための道具だった。でも、そうじゃなかった。道具は私のほうだった。私だけじゃない。この世界にあるすべてが、あなたのための道具だった! 貴女こそが、すべての中心だったんだ!」
優香は、長い間抑え込んでいた慚愧を吐き出すように叫んだ。