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196、未来 分節

ベルティーナは臣下たちに丁重に抱えられ、自らの城の病室へと運ばれていった。その後ろ姿を見送りながら、亜希は静かに侑斗と優香へと視線を向ける。


久しぶりに見る侑斗は以前と変わらぬままだったが、優香の姿は亜希の記憶にある、超然とした自信に溢れたものとはまるで違っていた。細くなった身体に纏うのは、深い疲労の影ばかりである。


亜希は一瞬、迷いの表情を浮かべたが、やがて何かを決意したように静かに一歩を踏み出した。優香と並ぶ侑斗の背後にゆっくりと近づき、勢いよく襟首を掴んで引き寄せる。


「うえっ!」


予想外の力強さに侑斗が情けない声を上げるが、亜希は構わず自分の方へと強引に振り向かせた。


「亜希さん……さっきは悪かったよ。いきなり肩に触れたりして……」


侑斗は的外れな言葉を呟くが、亜希の鋭い視線は彼を睨みつけたまま離れない。


「で、これは一体どういうこと?」


亜希の問いは刃のように冷たい。さらに横目で優香を示した。その視線に込められた静かな怒りを感じ取り、優香は頭を抱え深いため息をつく。


そこへ史音がすかさず忍び寄り、小声で亜希に耳打ちした。


「亜希、侑斗を放してやれよ。優香、ちゃんと亜希に説明してやれ。こいつは見た目こそ普通だが、怒らせると本当にやばいんだから」


言い終えると史音はさっさと、ベルティーナの後を追って城へと去ってしまった。


その場に取り残された優香が、ゆっくりと亜希に視線を向けて言った。


「直接会うのは久しぶりだね、木乃実亜希さん。そろそろ私の婚約者を解放してくれないかな?」


亜希は呆然として掴んだ手を離し、間の抜けたような声を漏らした。


「こんやくしゃ?」


頭の中に、鮮明に刻まれた8年前の記憶が蘇る。そして史音から教えられた優香の正体も。


『君には誰かに恋する資格はない!』


そう侑斗を殴り、全てを亜希に押し付けて去った女。目の前にいるその女性は椿優香――葵瑠衣、カラナ・ソーリアなどいくつもの名を持つ、侑斗の本体だと称する女。ユウ・シルヴァーヌという前世から侑斗の男性要素をすべて奪い取り、葵瑠衣と融合して生まれた偽者だ。


「気持ち悪い……」


亜希は吐き捨てるように呟く。その光景はベルティーナが感じた嫌悪より、さらに深く鋭く亜希の心を抉った。まるで病んだ心のナルシシズムが作り出した醜い自己愛のようだった。


「私の許可もなく、そんなことができると思うな! あんたが最初に逢ったとき、この人に何されたか忘れたわけじゃないよね? 二度目、も三度目もそうだった。あんたは自分のアイデンティティをすべて否定されたんだよ!」


侑斗は戸惑った。どう説明すれば、この状況を亜希に理解させることができるのだろうか――。しかし亜希は嫉妬しているわけではない。そもそも亜希の中には異性への恋愛感情というものが存在しないと聞いていいる。零がユウへの純粋な愛情以外を切り離して生み出した存在(かもしれないという史音の説明)、それが亜希だった。なのに胸の奥でざわつくこの感情は何なのだろうか。


「こいつは連れて行く。零さんから、今までわからなかったこと、見逃してきたことを聞くために。零さんがどれだけあんたのことを思っているか、あんたも知ってるでしょう?」


ようやく亜希が絞り出すように言った。


「零さんは俺に、この人と行くよう説得してくれた。ベルティーナに会うためだって」


侑斗の言葉に亜希はさらに眉を顰める。


「聞いてないよ! とにかくあんたは私と日本へ帰るの。零さんやみんなに会いにね。位相を跳ぶとか、マーキングを繋ぐとか、そういう妙なことは許さない。ちゃんと飛行機で帰るんだから」


周囲の人影が静かに去っていく。残った霧散師や枝の神子たちの目には、ただの痴話喧嘩のように映ったのかもしれない。あの霧散師の始祖である優香が、こんな人間臭い姿を晒すのが見るに堪えなかったのだろうか。


「あんたが私にしたことは()()だよ」


亜希の鋭い眼差しが優香を射抜く。優香は静かに腕を組み、諦めにも似た溜息を吐く。


「そう言われても仕方ないね。この世界で今、貴女に逆らえる存在なんていないのだから。彼を連れて行ってもいい。でも、すべてを貴女に話せるのはレイではない。その役目は私が引き受けよう。二か月後――そうね、日本のこの場所で待ってる」


優香はポケットから小さな手帳を取り出し、その白い紙の上に指先でゆっくりと何かを描いた。彼女の体温が微かな光を帯び、文字として紙に刻まれていく。


亜希はそれを無言で受け取ると、優香に背を向けて侑斗の腕をしっかり掴んだ。


「さて、どうやって帰ろうか」


優香が帰路の手配を引き受けると言ったのを受け、亜希は静かに侑斗と共に石畳の道を歩き始めた。いつか来たいと憧れていたイタリアは、想像とは全く違う、暗く重い感情が漂う場所になってしまった。今はただ、日本特有の柔らかな空気と懐かしい景色が恋しい。


そんな三人の姿を、史音はベルティーナの病室から静かに見下ろしていた。


「史音、あの三人はどうなりましたか?」


ベルティーナの弱々しい声が響く。史音は亜希に引きずられる侑斗の姿を見て、微かに苦笑した。


「ベル、早く眠ったほうがいいよ。あんたはもう、普通の人間が経験する一生の一万倍は経験したんだからさ」


ベルティーナは薄く瞳を開け、ぼんやりと天井を見つめた。


「でも不思議ね、史音。あの三人の中に、誰よりも彼を求めていた葛原零や私がいないなんて……」


窓辺から離れ、カーテンをゆっくり閉める史音は静かな口調で言った。


「そう感じるなら、ベルの精神がようやく原初の感情を取り戻したってことだよ」


ベルティーナの唇に穏やかな微笑が浮かぶ。木乃美亜希の力が、自分を再び化け物と混じりあう以前の女性として再生してくれたことに気づいているからだろう。


「アタシにはあれが自然な姿だと思えるよ。三人とも私が深く関わった人間だからね。侑斗も亜希も、それぞれのままだし、優香は自分自身の矛盾を捨て去って本来の姿に戻っただけだよ」


ベルティーナは静かに息を吐いた。


「史音も、侑斗に好意を抱いていたでしょう?」


史音は少し寂しげに微笑んだ。


「ああ、確かにそうだったかもな。でも侑斗には女たちの強烈な感情を受け止めるだけの精神力も体力もなかった。否定と欺瞞に満ちた侑斗は、女たちの母性を強く刺激する。本体から切り離された男の哀しさでできているからこそ、皆が守りたくなったんだ。でもそれは恋愛感情じゃないんだよ。亜希も、私も、ベルティーナも、零も皆同じ。だから結局、侑斗の本体である優香がアイツを取り戻すのが自然なんだ」


ベルティーナは静かに瞳を閉じ、柔らかな声で囁いた。


「それでも史音、どんな形であれ、一緒にいたいと思う気持ちこそが愛なのではないでしょうか」


***


ベルティーナが自らの城へ戻ってから、二か月が過ぎた。


人間が自らの願望を宇宙へ投影する能力を失った世界は、赤茶けて乾いた黄昏の世界へと変わり果てていた。いつの間にか人々は、破壊された世界の姿を自然と受け入れ、慣れてしまったかのように無感動になっていた。


パリンゲネシアが崩壊し、その後を追うようにシニスが徐々に世界を掌握していく。ダークの言葉によれば、世界の歪みが補正された結果らしい。


フォトスの世界もすでに消滅し、その存在を象徴する数百の史音の擬態もすべて消え去った。それでも、シニスの計画は淡々と進行していた。


シニスは世界の歪みを補正するためだけに存在し、パリンゲネシアはそれに抵抗するためだけに創られた歪みの集合体だった。その最終決戦で、パリンゲネシアを打ち倒したのはベルティーナ自身だ。そして、零が再構築した人間の世界だけが、いまだシニスの完全支配を免れていた。


乾いた大地を吹き抜ける冷たい風の中、人々はまだ自らの意思で思考を続けている。それがシニスにとって新たな障害となっていた。


そこでシニスは次の一手を打った。空を舞台として、人間の意識を根底から揺さぶる恐怖を演出したのだ。


…………


ある日、地上から見上げると、空には巨大な複数の地球が姿を現していた。それは月の五倍ほどもある大きさで、重なり合った複数の歪んだ地球の姿が虚空に浮かんでいた。地上のどこから見てもその奇妙な光景は目に入り、人々の遠近感や認識そのものを崩壊させた。


その光景は人々に対する強烈な警告となり、恐怖に駆られた人々の思考はシニスの望む方向へと誘導されていった。


だがそれでもなお、人々は完全に支配されきってはいなかった。まだ人間は、自らの存在を必死に守り続けていたのだ。

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