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195、未来 女王の帰還

濁った大気が乱れ狂い、絵の具を無理やり混ぜ合わせたような鈍色の大渦が、フライ・バーニアの真下で荒れ狂っている。


「ここは大丈夫なのか?」

侑斗が不安げに優香へ尋ねた。フライ・バーニアは本来、霧散師と同じように希薄な存在だったはずだ。人間の認識や知性による観測に耐えられるとは到底思えない。この世界を歪ませる波動の中、崩壊しない保証はどこにもない。


「レイもまだ自分の地球を諦めてないだろうし、きっと上手く避けて世界を整えるはずだ」


零の地球――ブルの世界。それは同時に優香と侑斗の故郷でもあるが、侑斗の記憶にはその片鱗すら残っていない。


眼下には赤茶けた地上が広がり始めていた。それがこの地球の本来の姿だという。しかし、侑斗はまだ知らない――人間が美しいと感じてきた青い地球の姿こそが幻影に過ぎないことを。その幻影がいつ始まったのか、ガガーリンの時代以前なのか、それとももっと遥か昔なのか……。


「第一誘導者という存在は、それぞれ分岐した階層において、上位の思考個体を形成する初動を起こす役割を持つ――私たちの階層だけは例外だけど」


このクァンタム・ワールドを創った創造主はあらゆる階層を超越し、宇宙に映る地球の姿さえも書き換えてしまった。人間が作り出したパリンゲネシアの階層は、創造主がシニスを使ってダークという管理者を生み出すのに最適な環境だった。それは同時に階層の乱れを正すための絶好の標的にもなったのだ。


「下に戻ろう。ベルティーナはきっと、セージ達のいる女王の城へ戻ってくるはずだ」


優香は侑斗の手を借り、零たちの居場所を特定した時と同じ要領で、ベルティーナの城を探し始める。


「意外に難しい……パリンゲネシアが消えた影響がまだ激しい」

優香は苛立たしげに唇を噛む。一旦探索を中断し、再び零たちの位置を測定した。世界を激しく揺らす零の居場所は容易に特定できた。


「ふーん、今レイのそばには史音と木之実亜希がいるみたい。修一くんのマーキングが役立ったんだね。史音と連絡を取ってみる。この嵐のせいで刻奏音が乱れて使いにくいけど」


侑斗の脳裏に、ベルティーナが自らの生命を懸けてパリンゲネシアと戦うと告げたことが蘇った。パリンゲネシアが崩壊した今、ベルティーナは本当に無事に戻れるのだろうか?最上階層へ辿り着いた彼女が、元の肉体に戻れる可能性はあるのか――。


「ベルはきっと元の姿で戻ってくるよ」

侑斗の心配を読み取った優香が静かに呟いた。


「でも、それはベルの存在が終わることを意味している……。それがベルティーナ自身の望みだったけど、ハルカを助けられなかった以上、私にはまだできることがあるはず」


優香は史音への刻奏音を送り続けた。


****


嵐の勢いが次第に弱まるにつれて、女王の城は徐々にその姿を取り戻しつつあった。パリンゲネシアの幻妖やフォトスの幻怪人との激しい戦いを生き延びたわずかな者たちが、力を振り絞って城の再生を試みている。


セージは周囲を見回し、生き残った仲間たちを確認した。一矢と美沙もなんとか無事だったようで、ゆっくりと身体を起こしている。


生存者はわずか十五名ほどだった。


セージはふと上空を見上げた。遥かな高みから落下してくる、微かな光――ベルティーナの姿がそこにあった。


「まだ動ける者は、私に力を貸して!女王が戻ってきます。女王を受け止める準備を!」


セージを中心に、生存者たちは円陣を組んだ。落下の衝撃を和らげるクッションのように、皆が必死の表情で腕を組む。


数分後、エメラルドの光が激しく輝き、円陣の中心に人の形が現れた。肌色を完全に失い、無防備な姿で現れたベルティーナだった。その衝撃波は円陣を吹き飛ばすほど強烈だった。


「史音、聞こえる?すぐに木乃実亜希を連れてベルティーナのところへ飛びなさい!」


優香の強烈な刻奏音がようやく史音へと届いた。


「ああ、優香か。了解したよ、ベルが戻ったんだな。こっちは今、叙情的にかなり混乱してるけど、なんとかするさ」


史音は耳を塞ぎながら優香へ応答した。視線の先では、彰が苦痛に蹲り、それを取り巻く亜希や零たちが沈黙の中で立ち尽くしている。


史音は深く息を吸い、意を決して歩き出す。沈黙の輪の中へ静かに入り込み、後ろに立っている亜希の右肩をしっかりと掴んだ。


「亜希、アタシと一緒に戻ってくるベルティーナのところへ行ってくれ」


史音は静かな力強さを込めて言った。亜希は戸惑い、心配そうに振り返った。


「戻ってきたベルティーナはもう自分自身の存在を失いかけている。お前の力が必要だ」


亜希の表情に影が差す。声はか細く、途切れそうだった。


「……史音、さっき自分で言ったじゃない。この場所は宇宙と繋がっていないって。だから私を連れて行っても、何もできないよ」


亜希は視線を地面に落としたまま、動こうとしなかった。


「優香の指示だ。きっと何か考えがあるんだ。だから一緒に来てくれ」


亜希は沈黙のまま、史音の言葉を拒むように目を背けた。


「私の力なんて、誰も救えないよ……だからせめて、彰くんやみんなと一緒にここにいたい」


史音は亜希の肩を強く掴み、感情を抑えるように低く言った。


「違う。今の状況を作ったのはお前の力だ。お前には、自分に出来ることをやる責任がある」


亜希はまだ俯いていた。その時、前方から静かな声が響いた。


「亜希さん。その娘の言うとおり、女王を救いに行って。彼女はまだ世界に必要。……少なくとも、今はね」


零の声には、自身の存在さえもやがて不要になることへの哀しい覚悟が滲んでいた。


亜希はようやく史音のほうを見つめ、小さく頷いた。


「ありがとう。葛原零、アタシたちをベルティーナの場所へ送れるか?」


零は頷き、空を見上げて短く名を呼ぶ。


「修一」


その声とともに、空間が揺らぎ、一人の男がまるで見えない階段を降りるように現れた。彼は周囲を見渡し、彰の顔を見てやや表情を曇らせる。


「……すまん、牟礼。(おおとり)ハルカは救えなかった」


史音は久々に顔を合わせた修一を見て、僅かに表情を緩めた。


「やあ修一、久しぶりだな。抜け道のマーキング、助かったよ。ベルの場所への道も作れたんだろ?」


修一は緊張した面持ちで応える。


「ああ、椿優香からも連絡があった。だが、この世界はまだ滅茶苦茶だ。ルートは細くて不安定だ、急げ」


修一が右手を水平にかざすと、空間に亀裂が入り、穴が開いた。史音は亜希の手を掴んで、その亀裂の中へ飛び込んだ。


次に現れた場所は、亜希にとって異国情緒あふれる見知らぬ土地だった。女王ベルティーナの城があるイタリアだろうか。その一角では十数人が何かを取り囲み、緊迫した雰囲気に包まれている。


「セージ、ベルティーナはそこか? 様子は?」


史音が輪の中にいる長身の男に声をかける。セージと呼ばれた男は重苦しい表情で振り返った。


「史音、女王はここにいます。ただ、いつまで持つか……」


史音は亜希を伴い、人々の間を押し分けて輪の中心へ進む。その中心に亜希が見たものは、半透明の緑色に点滅する裸の女性の姿だった。パリンゲネシアの階層に映し出された女王ベルティーナだ。明滅する身体の一部はすでに崩れかけている。


「ベル!」


史音が必死に呼びかけると、ベルティーナは僅かに反応したように見えた。


「階層の頂上から突き落とされたようです。肉体が変化についていけず崩れかかっている」


セージは淡々と、だが深い悲痛を隠しきれない声で告げた。


「亜希、お願いだ。ベルティーナを救ってくれ」


史音の声は切実だった。亜希は今の自分に何もできないことを理解していたが、その言葉に押されるようにベルティーナへ近づいた。


――どうか、私に力を。


亜希の内に微かな声の力が湧き上がったが、ベルティーナの姿は一向に回復しない。


「駄目だよ……今の私には何もできない」


「なんとかしろよ! ベルはアタシの大切な親友なんだ。ベルさえいてくれれば、他は何もいらない!」


史音の悲痛な叫びに耐えられず、亜希は立ち去ろうとした。その時、背後から誰かが強く彼女の肩を掴んだ。


亜希は驚いて振り返る。


「続けて、亜希さん。俺が道を開くから」


久々に聞く侑斗の声。その瞬間、亜希の身体に銀河の声が流れ込み始めた。


侑斗がクリスタル・ソオドを手に、宇宙との障壁を次々と切り裂いていく。侑斗の背後には優香の姿もあった。


亜希の声の力が増幅され、ベルティーナの半透明だった身体が再生され始める。やがて人の色を取り戻したベルティーナの身体に、セージが静かに自分のマントを掛けた。


「ベル!」


史音が駆け寄り、強く抱きつく。


「……史音?」


ベルティーナの弱々しい声が、ようやく戻ってきた。



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